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2019.10.30

Oshoと瞑想  Osho time記事カラーパンクチャー

カラーパンクチャーの話題は、当時Oshoコミューン中で、噂になり、この全く新しいヒーリングをOshoをはじめ、コミューン全体が受け入れた。
既に大物セラピストは、個人セッション、とりわけトランスミッターリレーといったシリーズセッションを受けていた。

3日間のワークショップを開いたピーターマンデルの記事をOsho timesは、次のように伝えていた。

ここに一人の人物が壺一杯の金を抱えて立っている。
人物の名をピーター・マンデル、壺の中の金をカラーパンクチャーという。
Oshoコミューンの真っただ中で、其の金の塊をいっぱいに掴んで、辺り一面に撒きながら
新しい時代の到来を告げる。
まるで集中砲撃を喰らった時の震撼というべきか、マンデルは、たった3日間のワークショップで120人の参加者のハートをものの見事に射抜いてしまった。
遠い星からの訪問を受けたような、海底に没して忘れ去られたアトランティスか、レムリアの古代文明から最後の生存者が地上に姿を現したような衝撃というべきか…
これは誇張でも何でもない。今回のワークショップに参加した大半のヒーラーが受けた印象をそのまま表現したものだ。ヒーラーたちはまるで一種のデジャヴのように。内側から自然と湧いてくる認知と賛同を感じたのである。
ちょっと想像をしていただきたい。ただ単に光だけ。しかもレーザー光線のようなものではなくただの懐中電灯が発する光だけをベースにした治療法。
小さな懐中電灯で皮膚上に赤、青、黄色、緑、オレンジ、紫のいずれかの色の光線を照らすことのみによって肉体、マインド、魂に同時に情報を伝えるという治療法。
肉体という物質の階層から秘境的な光よりなる体の最も深遠な放射物までとらえた、先の彼方には?
大いなる勇気をもって魂の無限に続く階段を登り始めたマンデルとその眼前に現れた高次元の光の存在、光明を得た、神秘家であり、マスターであるOsho、この二人の眩いばかりのプーナにおける「真昼の決闘」、ならぬ「真昼の邂逅」はいま、幕を開けたばかりである。
このカラーパンクチャーは、まったく正しい。
色は身体に影響を与える。
それを明らかにしたのは偉大な功績だ。
ピーターマンデルは、本当に素晴らしい仕事をした。この仕事によって、あなた方は実存ではなくマインドを、感情を、そして身体を変えることができる。
この方法で、もし、人が浄化されれば、それは良いことだ。そうすれば、瞑想はとても容易になる。これらの問題が瞑想を妨げているからだ。          OSHO
私は個人セッションを受け、1週間のグループやシリーズセッションを受け、トランスミッターのトレーニングのグループに入ろうとしていた。
2019.10.23

Oshoとピーター・マンデル

色でセラピーの仕事をしている人がいる。その人を探してきなさい というOshoの霊感に答えて、ドイツのサニヤシンが動いた。その時のOshoの言葉が残っている。
ピータ-・マンデルをここに来るように伝えなさい。我々は大いに歓迎する。しかもここには喜んで彼の研究対象になる何千の人々がいる。                   OSHO
その後はピーターマンデルから手ほどきを受けた数人のセラピストによる、実験的なグループ、トレーニング、個人セッションと展開するのだが、この流れは、Oshoとピーターマンデルとドイツのサニヤシンたちが計画した特別な機会だった。
Oshoとピーターマンデルは、どのような合意があったのだろう。Oshoは、究極のセラピストだ。カラーパンクチャーが瞑想のために非常に効果的ならば、コミューンの人の変容に効率的に違いないと考えていた。
一方でピーターマンデルは、日頃は、がん患者や体の病気に対して、心理的原因を取り除くカラーパンクチャーを施していたが、彼自身は、精神的向上のためのセラピーを開発していた。だが、体だけの問題を訴える患者には使えない。
Oshoコミューンの人たちならば、日々セラピーを受け、瞑想している人たちである。というわけで、精神的向上のためのセラピー、 トランスミッターリレーやプリネータルセラピーは、Oshoコミューンで実験され、かつ進化していったのである。


特にトランスミッターリレーに関しては、その進展にサリタというサイキックリーダーの存在なしには、完成していかなかっただろうと私は今でもそう思っている。
初期のグループは、混沌を極めた。セッションが始まると、最初から極めてネガティヴな感情が噴出し、それはカタルシスのためのダイナミック瞑想が必要になるくらい、強烈なものだ。
しかし、10日後にはその問題がすっかり消えてなくなっていることに気づく。遅い人でも半年すれば、いつの間にか解消している。この不思議な問題の消え方は、体験してみないとわからない。
カラーパンクチャーのセラピーは、カウンセリングや、従来どうりのセラピーの常識を覆すものだった。そうであるがゆえにネガティヴなものが出るときにどう対処するべきか、いろいろの実験がなされていた。こんなふうにほかの部門のセラピストやサイキックな判断ができる人に支えられて、少しずつ進化していったのである。
2019.10.16

oshoとカラーパンクチャー 奇跡的ヒーリングその2

カラーパンクチャーのグループは、主にサリタがリードしていた。サリタとは、以前このブログに書いた、サイキッカーの女性である。彼女がリードするうえでかなりこだわったことがある。
それは、「無条件の愛」というものである。

トレーニングのグループでは、参加者全員にローズクオーツをプレゼントされた。
ローズクオーツのエネルギーは、Unconditional LOVE,つまり、無条件の愛である。とサリタは、いった。


グループルームは、ピンクの布が張られ、ピンクの枕カバー、ピンクのクッション。
全て、無条件の愛を象徴しているという。

この無条件の愛という概念、実は、ニューエイジではお馴染みな言葉なのだが、本当の意味でのこの概念を理解するのは、なかなかむつかしいと思う。特に日本人の場合。
キリスト教会では、この概念が語られるようだが、神への愛とかと混同されることも多く、体験なしにはなかなか理解できない。

いろんな聖人が愛について語るが、言葉だけでは理解できないものである。
多分日本の文化の中には、存在しない概念なのではないかと思う。多分、語ることは、ナンセンスなのだろう。
しいて言えば、「あの人は、い~い人だ」とか、「いっしょにいて、おちつく」とかいう言葉が近いのではないだろうか。だが、近いが違う。
Oshoは、無条件の愛は、その人その人の内側で実現するといった。その愛は、方向性を持たない。その愛の中でくつろぐということができると語った。そして、不思議なことに愛のエネルギーは、使えば使うほど増えていくものだと語っていた。

きっとサリタはその愛を感じながら、セラピーを行うことを理想としていたに違いない。
グループの中では、ローズクオーツ瞑想というものを行ってから、ワークを始めた。
ローズクオーツ瞑想は、径5センチくらいのローズクオーツを 頭の右後ろ、右前、左後ろ、左前、頭頂、額と、各1分当ててもらう。二人組んで交互に。そして、10分間沈黙するという。
静かな、儀式のような不思議な朝のセレモニーであるが、なぜ、毎日行うのか、その時はわからなかった。あるとき、私は、何かが定着していくのを感じた。

サリタは、いつもバラ色の笑みを絶やさず、決して怒ったり、人を否定しない人だった。
Unconditional LOVE そのものの人で、決して表面的につくろっていたわけではなかった。
サリタのセッションをコミューンのBooking office(予約センター)で依頼すると当分キャンセル待ちであるが、直接話すと、びっしり書き込んだスケジュール手帳を取り出し、朝早く起きれるなら6時半にコミューンに来るようにという。

手帳を覗き込んで、びっくり。早朝から夕方まで、食事の時間もろくに取れないほどびっしり予定が詰まっている。その上、グループワークのセラピストとして、指導している。
サリタは、愛のエネルギーを放射しながらエネルギッシュに働いているのだが、色々な人が自己中心的陰謀を働いている。

いろんな人が、自分のビジネスにサリタを利用できないか、サリタと関わって、自分も権威を獲得できないか、傍から見ると甘い汁に群がるダニのようにも見えた。
あるとき、私はサリタに訪ねた。

なぜ、人々の悪いところも見ようともしないのですか。人のネガティヴなことは、目に入らないのですか。
すると、サリタは、
「ディンパル、一日24時間醒めていなければいけないのよ。」と優しく微笑んだ。
私は、衝撃を受けた。まず、彼女の途方もない愛のエネルギーがあって、そして、コメントがある。普通の和尚セラピストは、このようなとき、ただ和尚の言葉を引用してしゃべるだけである。語った本人の存在は見えない。

サリタの愛の秘密は、覚醒であった。愛と覚醒のエネルギーに触れるのは和尚コミューンの中でもめったにあることではなかった。
彼女の深い眼の中にネイティブインディアンのスピリットを感じた。そういえば、白人にしては背が低く、どことなく東洋人にも似ているようだ。インディアンの血が少し流れているのだろうか。
今となっては、彼女は無条件の愛を実現しようとしていたことがわかる。だが、はじめは、そのことを理解できなかった。そして理解していた人も少なかったと思う。

グルジェフもこう言った。覚醒は愛ではない。だが、愛に至る道だ。
瞑想と愛は、友達だ。しかし、愛の反対は、恐怖である。つまり、さまざまな恐怖を愛に変えてゆくことこそ、真の魂の改革なのである。
2019.10.10

Oshoとカラーパンクチャー…奇跡的ヒーリング その1

1990年、和尚を肉体を去ったあとのコミューンは、ますます美しさが増しているように思われた。
和尚の臨在が、確かにあるのだという雰囲気だった。

ところで、カラーパンクチャーのトレーニングやワークショップが始まろうとしていた。
個人セッションも全ての人になされるようになった。
受けた人々の感想は様々だった。本当に2手に分かれた。

とても素晴らしかった。いろんなことがクリアーになっていく。という人がいる一方で、何も感じなかった。マッサージの方が良い、という人、そんなもので存在が変わるんだったら何十年も瞑想をしたことは、なんだったのか、絶対に信じられないという人。

私は、この頃、プラーナヒーリングのトレーニングをしたおかげで、既にその人のオーラが、明るいか、暗いか、低いか高いか位のことは、見えるようになっていた。

あるとき、カラーパンクチャーのデモストレーションがあるというので見に行ってみた。
その場で、受けた人すべてのオーラがたちどころに変わっているのを目撃したのである。
これはすごい、でも本人は何も感じてないようだ。よかった、という人と、何も感じないというひと。しかし、受けていた人のオーラは、全員高く伸びて輝いていた。

個人セッションを受けてみたら、すごくすっきりした感じ。しかし、単にすっきりしたというわけではなく、もっと奥深いものがあった。言葉で言いあらわすのは難しい。

この時、カラーパンクチャー部門をリードしていたのは、サリタというアメリカ人の女性だった。金髪がふわーと長い。小柄で繊細な感じ。サイキッカーとして知られていた。

アメリカでは、すでにその人の過去や未来を見抜くことのできるサイキックワークを仕事にしていて、姉とともに、コミューンでも個人セッションを行っていた。
ところで、そのサリタに個人セッションを受けているという日本人の女性がいた。詳しく話を聞いてみたい。その女性は、今受けているトランスミッターのシリーズについて、長々と語った。
カラーパンクチャーの個人セッションには、過去世を含む人生をクリアーにするトランスミッター・リレーというプロセスがあり、それを受けているところだという。

セッションに行くと、サリタからは、「あなたは、過去世で、原爆にあったのです。とても悲惨なことがありましたが、それを、クリアーにするためにここにきました。よくここまでたどり着きましたね。」といわれたらしい。

その女性は、毎日、髪を解くと、髪が抜けていることに異常な恐怖を覚えていて、毎朝髪をセットするのが辛いのだと打ち明けてくれた。
話を聞いて、私も受けてみたいと思ったのだが、サリタにそのセッションを受けるには、細部にわたって、英語がペラペラでないといけない。

特に医学用語には、私は全然自信がなかった。英語のハードルはかなり高そうだった。もちろん、サリタは日本人には、特にゆっくり話してはくれるのだが…。
トランスミッターの個人セッションは、希望者が多く、予約でいっぱいで入れなかった。に加えて、英語に自信がないと後回しにされること必至である。

しかし、朗報が舞い込んできた。トランスミッターのトレーニングの中でモデルとして受けることができるということなのである。もちろん通訳をつけても良いし、人数も大量(といっても20人くらいだが)に受け付けるという。

だが、そこにも入れなかったが、結局、そのトレーニングを受けた日本人から受けることができた。これなら日本語でOKというわけであった。
とにかく、その時期は、和尚コミューンはカラーパンクチャーで盛り上がっていた。
そして、サリタの神秘的な香りが付け加わり、ピーターマンデルが強調する科学的な分析よりも、人生をクリアーにする瞑想ツールとして発展していったのであった。
2019.09.29

イラン入国

トルコをバスで東に行くと、だんだん砂漠になる。草や木も生えていて、そこらじゅうに遺跡が埋もれているのが見えるが、誰もそれを掘り出そうとはしない。ああ、古代文明が忍ばれる。大きな崖を下りるとイランの入口である。

入国の時、音楽は禁止だとギターを取り上げられる人もいた。完全なるイスラム。西洋かぶれは処罰される。イスラマバードには、夜到着。なんとなく華やかな雰囲気が残っていた。女性たちは、黒いマスクを外してほほ笑みかけてくる。首都は不思議な雰囲気だった。

最もイスラム的な世界がアメリカ的になり、再びイスラム的になるところだった。イスラム革命後、パーレビ国王がフランスに追放され、イランは再び元の体制に戻ろうとしていた。道には、イスラムの憲兵が所々で見張りをしている。

街を歩いていると、黒い衣服の中から赤い衣服を覗かせた女性がこちらにおいでと誘う。黒いマスクを外し、顔を出す。私は何の商売か?と思ったが、ただの女子学生であった。

英語での楽しい語らいが始まる。たくさんの女性たちが話したがっていた。裏通りの馬小屋の中で戯れる。と、憲兵が走ってきた。女性たちは慌てて黒いマントをかぶる。

この女性たちはパーレビ国王のもと、アメリカ式の自由を謳歌したあと、突然のイスラム革命により、
顔を隠して歩かなくてはいけなくなったのだ。

私は最後に、ベールに包まれた目より下の顔をのぞきこみ、話をして、ホッペにキスをした。ヨーロッパでは神秘の顔とされているイランの女性たちは、やはり綺麗な人たちであった。

パーレビ国王が解禁したアルコールもディスコも禁止されている。朝には何千年も続いたコーランの祈りがスピーカーから流れた。

安宿のベランダから早朝に聞こえるコーランの祈りは非常にゆっくりと言葉を伸ばして歌う。沈黙と特別な発声。それを聞くといつの間にか私は瞑想状態に入り込み、ダークネス・メディテーションの続きをしているような気分になった。ベランダから見える空が黒くなった。

コーランは第3の目を打つ特別な歌だった。
イランではしょっちゅう泥棒にあったが、コーランを聞くと、盗まれたときの不快感がどこかに行ってしまうのである。本当に心が救われる思いだった。

朝夕のコーランが聞けないと思うと、アメリカナイズは良くなかったと思わざるを得なかった。だが女性達にはどうだったのだろう。複雑な気分になりながら、皆が行く観光地の南ではなく、カスピ海を目指して北へ向かった。
2019.09.29

Oshoと瞑想  エーゲの黒い太陽 2

真っ暗な空間の中で目は暗く光を失い、体は鎮静している。

一日中寝ていてもいい。体を動かすのは最低限。

外側の刺激は何も心を打たない。

生き物として初めて落ち着いた次元にいるので気が楽だ。

外側の刺激が内側を当惑することもない。内側は静かだ。

真っ黒でとてつもない落ち着きだ。

この瞑想のあとはその人の目の光が失われる。

光は外から来ていた。今や内側の闇から光を見ている。私はこの落ち着きを手に入れた。私の目に光はない。あのグルジェフやクリシュナムルティのように。ただ暗闇から光を見上げる。

3週間後、おそるおそるカーテンを開ける。この時、恐るべき現象が起こる。暗い目で光を見るとき、そこには暗闇が見えるのだ。




エーゲ海は黒かった。太陽はネガフィルムのように黒い玉のように見えた。
私は少し成功したのだ。

光は少しずつ増してきて正常に戻った。
だが、私はいつでも暗闇化しようとすれば出来た。世界は黒くなる。

ダークネスの闇は、エーゲ海によく似合った。深い青緑から黒に変わった。
灼熱の太陽は、黒い玉になる。

幻想はなく、深い静けさがある。エネルギー的現実だった。
2019.09.28

Oshoと瞑想  エーゲ海の黒い太陽 1

いつもエーゲ海を見ていたい。
Oshoが訪れたエーゲ海は、今は、サニヤシン(弟子)たちの喧騒もなく、静かだ。


4DKの部屋を二ヶ月借りた。
マンションの四階にあり、海が見渡せた。
ここは別荘として使われていたところで、オフシーズンの今は、周りも静かである。
私は準備を整え、ヴィパサナに入りながら生活を立て直していった。

ミネラルウォーターと野菜を買い、プロパンガスを手配し、調理とシャワーができるようにした。
砂浜を歩き、エーゲ海の潮風を受けて朝夕散歩しながら心は静まっていった。

ニューヨークの仕事はハードだった。
だからこそ大金が稼げたのだが、Oshoの居所も相変わらずつかめないまま、忙しすぎた日々から瞑想へとシフトしていくのは、何とも言えない気持ちだった。

それでも私はもうひとつの瞑想、oshoのタントラの本のなかにある、ダークネス・メディテーションを行おうと決めた。
ギリシャでは陽のエネルギーが生まれたが、この瞑想は、自分の中の闇を見ていく瞑想である。

第一段階では、自分の中の闇を見る。
第二段階は、自分の闇を通して世界を見る、成功すると世界は黒く見えるというものである。 

まず、真っ暗な部屋を作る。カーテンを閉めて黒い布を貼り、真っ暗の中で目を開けて前を見る。同時にヴィパサナもする。窓のないキッチンに閉じこもり、真っ暗闇の中で食事もロクに取らないで3週間瞑想した。

外側が黒いと内側も黒くなる

我々は内側に光を求める

外側から求めた光はニセモノだ

人を幸せにするように見えるが本物の光ではない

あなたの内側は光ではない

外側の光で作った映像は、内側のマインドを太らせる

内も外も闇であれば、マインドは映像を作る材料がなくなる

内側の闇は、ノーマインド。

宇宙からこの地球に来た時のあなたの本質だ

目を開けても本質が残れば世界は黒く見える

少しでも光があると、目が慣れてフクロウのように少しずつものが見えてくるので全く締め切らないといけない。夜も昼もわからず、壁に飾ってあったカレンダー付き柱時計を見ないと何日目かわからない。だが時間はたっぷりある。私は目を開けて真っ暗な世界をたっぷりと見つめた。       (つづく)
 
2019.09.28

Oshoと瞑想 エーゲ海の波の音

New yorkからロンドンへ、私はかつて巡った道を振り返るようにヨーロッパを横断して丘の下に見下ろしたのはエーゲ海だった。エーゲ海は緑色で独特の美しさだった。ギリシャでヴィパサナ瞑想を終え、私はギリシャの西伝いに船でトルコの西海岸に渡った。

国境を越えると物価が半分になる。フランスから、イタリア、ギリシャ、トルコと渡って、どんどん物価が安くなった。だが、トルコだけは、物価というものがわからなかった。

ギリシャのヒオス島からトルコのチャシュナへ船で渡った。

船を降り、入国管理を済ませると、バスターミナルであった。やぎや鶏。犬がひしめき合い、女は黒いマントで目だけ出して、会話はあまりしない。男は白っぽい服を着て、なんでも男が取り仕切っている。

私はアラビヤ文字だけの表示にくらくらしながら、「イズミール!」と、行先の町の名前を連呼した。
と、数人の男がやってきて、私の手を握って、連行され、バスの中に押し込んだ。

でこぼこ道を一時間走って、突然、外に下ろされた。別の男に今度は引っ張られ、三叉路で次のバスに乗せられた。そのバスからまた下ろされると、そこは、街のようだった。
 

また別の男が手を取ってその街の汚い、ベット一つの狭い部屋に連れて行かれ、ぶち込まれ、部屋代を請求された。

ミミズが這っているような、アラビア文字だらけでどこに着いたのかもわからない。ここでは数字さえもアラビア文字で表示されていて、ただ柱時計だけが、私の読めるものであった。とにかく目的地についたようだと思った。しかし、これからどうしたらよいのか見当もつかない。

ホジャどん(ホジャ・ナスルディン…トルコの笑い話の主人公)の故郷は、はて、こんなところだったのかと、まだ何がなんなのかわかっていなかった。

荷物を置いて、夕方外に出ると、屋台が並んでいた。屋台は分かったが、とにかく、数字もアラビア文字で、途方に暮れた。アセチレンランプの匂い。薄味の薄香辛料、薄オリーブ油のごくあっさりした食事だった。

このあたり、ギリシャから来るとすごくほっとするものだ。ギトギトのオリーブ油には体がついていかなかったからである。

食べていると、見知らぬ男から「どこからきた?」と聞かれた。「ジャパン」と答えた。何か話かけられていたのだが、ほとんど意味がわからない。

食事を終えて帰ろうとしてお金を払おうとすると、誰かが払ったという。さっきの見知らぬ男が払ったのだろうか。

翌日、3人の男が朝早く訪ねてきて、街を案内してくれた。しっかりとガードするように、私の手をかたく握って、色々なところをまわってくれた。食事もお茶も全部おごってくれた。

彼らのやり方は乱暴だが、親切にしてくれているのだということが、だんだんわかってきた。最初は恐怖でいっぱいだったが、だんだん感謝の念に代わっていった。

ガイドブックがないから、海岸沿いにエーゲ海を見ながら少しずつバスを拾う。トルコに来て一か月にもなろうとしているのに、私は物価というものがわからなかった。必ずどこからか見知らぬ男があらわれて、食事代やお茶代を払ってくれるからである。

一日に何回も、見知らぬ男たちに招待されるチャイハネ(喫茶店)では、いつも彼らが代金を払ってくれるので、ブラックティーが一杯いくらなのかわからない。

ひとりでレストランに入ると、必ず相席を申し込まれ、食べ終わると、いいからいいからと伝票を取り上げられる。ときには、西洋式に生ビールを何杯もおごられた。決まって、すべて代金はむこうもちだった。

私が食事代を支払うということは許されなかった。私は、日本から来た大切な客人というわけなのだろうか。どこへ行くにも固く手を結んで連れて歩かれて、道に迷うことはなかった。

こんなに親切にされて、私には何も返すものがなかった。親切にしてくれた見知らぬ男たちは、みな深い皺が刻まれ、人生や人柄を表現していた。それはおおむね、正義と義理と人情。あの渋い高倉健さんも顔負けの人間味のある渋~い顔であった。

男の社会。朝はお茶を飲み、楽しく語り合う。昼も夜も。

私はさらに南下し、エーゲ海のビーチ、カレーというところで、やっと一人になれた。ひとりになって、教えられたトルコ語を思い出しながら、海の家で泊まり、エーゲ海で泳いだ。

波の音を聞きながら眠った。
2019.09.25

Oshoと瞑想 クンダリー二の上昇

きらびやかなニューヨークの街を後に、東に、とりあえず以前1年住んだロンドンに降り、懐かしさと安らぎとを感じていた。こんなに街がこじんまりと小さかったっけとなんだかかわいい田舎町に来たような気分になった。

Oshoは、ワールドツアー中で、ギリシャに行くらしいという情報はあったが、居場所がわからず、その後、何の情報も入ってこなかった。私は1人ヨーロッパを南下した。ギリシャからトルコへエーゲ海の岸辺にマンションを借りて、食料を1か月分買い込んで3週間のヴィパサナをするつもりだ。

ヴィパサナとは仏陀が弟子たちに与えたとされる非常に古い瞑想法だが、やり方はシンプルでただ呼吸を見ているというだけの瞑想である。これまでも様々なところで3週間のヴィパサナをしたが、クンダリー二が上がっていく3週間目の強烈な体験をもう一度してみたかった。

3週間、人に会わないようにして瞑想を高める。

1週間目は混沌とした呼吸とマインドだ。(ほとんどの人はここで挫折する。)

2週間目から呼吸は規則正しく、マインドは静まる。(心は安らぐが眠くなるのでますます覚醒しなければならない。この時マインドは最後の戦いを挑んでくる。)

3週間目からは呼吸はほとんど止まるくらい深く静かになり、さらなる覚醒が要求される。(さまざまな悪霊や妖怪のようなものも襲ってくるかもしれない。)
眠らないで一瞬でも見逃してはならない。ボーディダルマが瞼を切った瞬間だ。

背中からは電気が昇ってくる。クンダリー二だろう。何回も何回も昇っていく。ただみるのだ。呼吸は静まり、覚醒は強くなる。その覚醒こそがエネルギーだ。もっとも強力なエネルギー。最強のスピリチュアルエネルギーだ。瞑想が深まった時、「観る者」を体験する。その「観る者」こそ過去生から永遠に続いてきた「私」なのだ。そしてこの「私」こそがこれからも永遠に続く不滅の魂なのだ。

体は強烈なエネルギーであふれている。不用意に人と会うことは危険だ。どんなエネルギーの爆発があるかしれない。普段の生活にゆっくり戻ろう。そのエネルギーは内部にとどまり、何十年も減ることがない。

これまでもいろいろなところでヴィパサナをやったが、この時が最も強烈な体験となった。自然があり、しかも3週間プライベートを保てるところは、世界中探しても実はあまりないのである。観光地は外見は素晴らしいが、雑多な人がひっきりなしに訪れるおかげでエネルギーが低く、田舎町は自然があって人もいないように思えるのだが、そこに住んでる人々の好奇な対象になってしまう。

自然があってプライベートに瞑想できるところでは、瞑想が非常に効率的で、神秘の体験を深めることができる。だが、その後、だんだん世間の中でも瞑想することでさらに自分の瞑想の質を高めていけることも確信できたのだった。
2019.09.25

Oshoと瞑想  さらばアメリカ

ニューヨークとオレゴンのラジニーシプーラムとの半年ごとの往復が始まった。ニューヨークで働いてお金を貯め、貯まるとすぐにプーラムに行き、半年間ずつ長期のセラピーやワークショップを受けるのだが、皆が行く夏だけでなく、冬に行くこともあった。夏は、愛や瞑想を素晴らしくポジティブに受け取れることができ、楽しかったが、冬はどうしても苦しい自分にも直面せざるを得ず、つらかった。底冷えのするみぞれ模様の雨の中で、厳しい人間関係のエンカウンターで落ち込む自分を祝祭するのはむずかしかった。

セラピーと瞑想は、プーラムを離れてまた来るたびに、同じところから魂の成長は始まるのがよく分かった。(日常生活でもニューヨークは充分幸せであったが。)プーラムのコミューンは素晴らしかった。青春のように朝早くから夜遅くまでダイナミックな活動でフルに回転していた。Oshoは常に体調が悪いらしく、弟子たちはそんなOshoに愛を送っていた。愛はクールに山々を満たす。砂漠の山々はOshoの瞑想と弟子たちの愛で満たされた美しいエネルギーに満たされていた。ハートからハートへ愛が流れていて、深い深呼吸のように、至福が砂漠の山々に広がっている美しい体験だった。
ラジニーシプーラム


1985年11月 Oshoがアメリカを追放され、ワールドツアーとして世界を放浪に出るころ、私は4年間住んだニューヨークの生活を整理していた。友と西と東に分かれ、私は東に行った。マンハッタンのど真ん中の高層ビルの14階からの夜景はもう見納めだ。記念にコカ・コーラを2ℓ飲んでやった。さようならアメリカ。さようならニューヨーク。人間のいろんなエネルギーが渦巻いているこの街。この街でドラッグじゃなくナチュラルハイでいられたのもOshoの弟子であったおかげだ。Oshoを求めてギリシャに行こう。空港から飛び立つ時 泪がこぼれた。