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2019.09.25

Oshoと瞑想  さらばアメリカ

ニューヨークとオレゴンのラジニーシプーラムとの半年ごとの往復が始まった。ニューヨークで働いてお金を貯め、貯まるとすぐにプーラムに行き、半年間ずつ長期のセラピーやワークショップを受けるのだが、皆が行く夏だけでなく、冬に行くこともあった。夏は、愛や瞑想を素晴らしくポジティブに受け取れることができ、楽しかったが、冬はどうしても苦しい自分にも直面せざるを得ず、つらかった。底冷えのするみぞれ模様の雨の中で、厳しい人間関係のエンカウンターで落ち込む自分を祝祭するのはむずかしかった。

セラピーと瞑想は、プーラムを離れてまた来るたびに、同じところから魂の成長は始まるのがよく分かった。(日常生活でもニューヨークは充分幸せであったが。)プーラムのコミューンは素晴らしかった。青春のように朝早くから夜遅くまでダイナミックな活動でフルに回転していた。Oshoは常に体調が悪いらしく、弟子たちはそんなOshoに愛を送っていた。愛はクールに山々を満たす。砂漠の山々はOshoの瞑想と弟子たちの愛で満たされた美しいエネルギーに満たされていた。ハートからハートへ愛が流れていて、深い深呼吸のように、至福が砂漠の山々に広がっている美しい体験だった。
ラジニーシプーラム


1985年11月 Oshoがアメリカを追放され、ワールドツアーとして世界を放浪に出るころ、私は4年間住んだニューヨークの生活を整理していた。友と西と東に分かれ、私は東に行った。マンハッタンのど真ん中の高層ビルの14階からの夜景はもう見納めだ。記念にコカ・コーラを2ℓ飲んでやった。さようならアメリカ。さようならニューヨーク。人間のいろんなエネルギーが渦巻いているこの街。この街でドラッグじゃなくナチュラルハイでいられたのもOshoの弟子であったおかげだ。Oshoを求めてギリシャに行こう。空港から飛び立つ時 泪がこぼれた。
2019.09.24

oshoと瞑想 サニヤシンとなる

oshoのサニヤシン(弟子)となったのは、長い旅行の末、アメリカのラジニーシプーラムにやっとたどり着いたときで、1982年夏、ワールドセレブレーションのなかであった。ボーディ・ディンパル(覚醒の太陽)という名前負けしそうな名前をいただいてサニヤシン(インドでは世を捨てて自分の主人となるという意味。覚醒した人の弟子)となったのであった。

サニヤシンになるには瞑想していなければなれないといううわさが飛んでいて、私は面接官に自分の瞑想体験を語った。(その当時は瞑想が足りないという理由でなれない人もいた。)
実際、サニヤシンになる何年も前から瞑想には入れ込んでいた。それはやはりoshoの(当時はバグワン・シュリ・ラジニーシ)「存在の詩(そんざいのうた)」に感動して瞑想を決意したのであった。その本はチベットでの光明を得たマスターであるティロパ(988-1069)の有名な詩から始まるのだ。今でもやはり感動的なので少しだけ紹介しよう。

マハームドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ 真剣で忠実なる汝のために
今、この詩を与うべし

空は何物も頼まず
マハムドラーは何物にも依らず
また労せずただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

私は当時の弟子の条件となる赤い服に身を包み、毎日ダイナミック・クンダリーニ瞑想をしながら世界中の山でヴィパサナ瞑想をして、サニヤシンになる準備をした。ギリシャやトルコなどの人のいないところを長期間借受け、瞑想するのを好んだ。ある時、グアテマラの火山の上の湖、サンチャゴアテトラン湖の真ん中にある小さな島を借りきって、渡し船もなく、一人無人島でヴィパサナ瞑想をしていた時のこと、私の中で地球のパワーとクンダリー二が大きく共振し、今こそOshoに会いに行くべき時と思い立ち、近くを通る渡し船を待った。Oshoの言葉「師は現れる。弟子の用意が整ったとき現れる。それは決して遅れることはない」という言葉が強烈に胸に響いてきたからである。

グアテマラからアメリカに、所持金が少ないので、真冬のニューヨークに飛行機で降りたは、ー20度のなか、Tシャツに機内で配られた毛布を被って寒さをしのいだ。ニューヨークの日本レストランで働いてお金を貯め、なんとか夏のセレブレーションに間に合ったのである。このことを面接官に話すと彼は非常に驚き、喜んで、すぐにサニヤスのマラ(木のネックレス)と名前を受けるよう取り計らってくれたのである。