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2013.09.03

簡単ではない!ヒマラヤの旅 その6(最終回)

ひたすら下りる道には、どこでも宿があって、
何不自由はなかった。
下山するにつれ、植物帯が変わり、次第に緑の森になった。
我々とシェルパは、ひたすら急な山道を下った。
恐ろしく急な岩の坂道もあったが、
何より高山病からも解放されてとても爽快だ。

途中、シェルパは、
「自分には4人の娘がいる、帰り着くのが楽しみだ」といった。
その言葉からは、だから、
途中で仕事を放り投げて帰るわけにはいかないのだ。
といったニュアンスが読み取れた。
そういうわけだったのか。
貧しい山村のひと時の幸せな光景を想像した。
4人の可愛い娘が父の帰りを待っている。
出稼ぎから帰ったその父は、まとまったお金を、
少しでも子供のために使ってあげたい。

下りは早く、5日ぐらいでナムチェバザールにに到着。
最初泊まった宿に荷を解き、おかみと無事をよろこびあう。
どうだったと聞かれ、
「すばらしかったよ。」
「ガイドはどうしたの?」
「ああ、散々な目にあったんだ。こうこうしかじかで...。」
おかみは信じられないというふうに驚いている。
「ラマは途中で帰ってきたわ」とも言った。
「そうなんだ、彼は途中で仕事を投げ出して
ゴーキョまでも案内してくれなかったんだ。彼は、いるか」
「ああ、となりのシェルパたちの常連宿にいるわ」
「呼んで来て下さい」

というわけで、彼は数人の男に連れられてやってきた。
「ラマ、まず会計報告をしてくれ、
宿代や食事代、全て任せて合計渡したが、経費はいくらだったんだ、
ノートに書いてくれ」
驚いたことに、ラマは、字が書けないようだ。
「お前はペテン師じゃないか。途中で投げ出して。
シェルパにはいくら払った、聞いたぞ。
一日一食の食事代しかやらないで、全部自分で取って!
半分とは言わないがせめて3割くらいはシェルパにやったらどうだ。
仕事も半分しかやってないのだから半分返せ。」
ラマはとぼけている。

「ラマ、外にでろ」
宿の受付のところでは迷惑になると思い、外の道に移動した。
「ラマ、ふざけるな」
と胸ぐらを掴んで怒った。
人が黒山のように集まってきた。

「こいつはキャンプの荷物を売り払ったり、
宿代をケチって毎日テントに泊まらせたんだ。」
「本当か?」取り囲んだチベット人が言う。
「本当だ、このシェルパが証人だ。」
シェルパはうつむいていたが、とうとう口を開いた。
「本当のことだ。彼はこの人たちの宿代も食事代もとったんだ」
囲んだ人たちが、ざわざわとしてきた。ラマは謝らない。
「お金はどうした」
ずっとだまっていたが、とうとうラマは、ぼそりと言った。
「博打で全部使った」
「え?」私はびっくりしてあっけにとられた。

その時、大男が割り込んできた。
「ジャパニー、やめろ、これでカタをつけろ。」
懐から札束1つを出して、私に握らせた。
「皆、去れ!」
と鋭い目つきで見回すと、
蜘蛛の子を散らすように人々は去っていった。
「お前は誰だ」というと、
「ボスだ。ギャンブルを支配している」といった。
この地を実質支配しているヤクザのような奴だろうか。
「ラマ、最後に謝ったらどうだ、
金を返せばいいっていうもんじゃあないぞ」
私はいったが、ラマは後ろめたそうな顔をして
そのまま走り去った。

シェルパを呼んだ。
「どうやら金は何倍にもなって帰ってきてよかった。
ところで、この金は全部取ってくれ。あなたは命の恩人だ、
感謝している、ありがとう。」
「とんでもない」と彼は言ったが、
「シェルパ、4人の娘が待っているんだろう、受け取ってくれ、
それに、もう三日、荷物を持ってくれたら、賃金を出すぞ。」と返した。
ところが、シェルパは青ざめ、そわそわしている。
「ありがとう」と彼はお金を受け取ると
「私はもう行く」とそそくさと帰る用意をし始めた。
そうか、私は何か理解した。
しばらくは仕事ができないだろう、追っ手が来るかもしれない。
早く身を隠すがよい。
彼はすぐ裏道から山を降りていった。
もう二度と会うことはないだろうが、一生忘れないよ。

チベット人は、皆、信仰深く良い人だという幻想を持っていたが、
ミラレパの話は今もなお生々しく生きているのだということを実感した。
ミラレパは、父の死後、伯父から財産を没収され、
母と妹とともに叔父の家の下働きにされる。
それを恨んだ母は、ミラレパに黒魔術で、
伯父の一家を呪い殺すよう要求する。
ミラレパは、母の願いに答えて、呪術師に弟子入りし、
見事、黒魔術を習得し、伯父の息子の婚礼の席で
伯父、伯母を除くすべての人を呪い殺す。
その後、そのことを後悔したミラレパは、
とてつもない修行を、師、マルパのもとで励むこととなる。

このヒマラヤでは、人々の感情は、世間的だが、単純だ。
一人の想念が遠く氷河をわたって伝わることは実感できる。
宇宙でさえも近くに感じられる。
本当にすぐそこの洞窟にミラレパがいるような気がした。


自ら目覚めるによって
一切は労せずして成就される
           ミラレパ
    
           
このあと我々は、ランタン方面のゴサイクンド巡礼に向かいまし
た。いつか機会があったらまた書こうと思います。
2013.08.29

簡単ではない!ヒマラヤの旅 その5 氷河とチョーラ峠

朝になって、ちらちらと雪が降ってきた。
雪が積もるとチョーラ峠は危ない。
が、この程度のちらちらした雪では大丈夫かもしれない。
とにかく急いで宿を出た。
しばらく歩くと、遠くに氷河が見えた。
氷河は大きく、川幅は1Kmあるように見えた。
初めて見る氷河に感動する。しかし、これを渡るのか。

いよいよ氷河のふちにたどり着くと、
シェルパは何のためらいもなく氷河に足を踏み入れる。
氷の状態は均一ではなく、はまりそうなところや
固く凍っているところなど、まちまちである。

氷河は、均一なスケートリンクのようなものではなかった。
起伏が激しく、立体的な迷路のようだった。
平坦な道から突然、がけのように滑り落ちたりする。
下ばかり見て歩いていると、だんだん方向がわからなくなる。
シェルパは、そこは危ない、こっちこっち、とか指示をくれる。
雪が突然崩れて川底に落ちる場合があるそうだ。

はじめは恐る恐る歩いていたが、そのうち慣れてきた。
次第にヒマラヤの川のスケールの大きさを楽しめるようになっていた。
氷河は忘れられない思い出となった。

氷河を渡り、丘を越えたら山小屋があり、
チョーラを目の前にして我々は一泊することにした。
中で薪ストーブが燃えている。
もちろん燃えているのは薪ではなく、
ヤク・ポテト(ヤクの糞を乾燥したもの)だ。
荷物を運ぶための、あるいは野生のヤクの糞は、
ここでは貴重な燃料である。
高地の山々には木どころか少しの草も生えていない。

カトマンズで出発前にチョーラのことを聞いて回ったが、
誰も今の状況は分からないといった。
ほんの一時期に登れるが、雪の状態によっては登れないという。
地図にはただ点線が結んであるだけだった。
とにかく難所であることだけはわかっていた。

ここでニュージーランドの登山グループと一緒になる。
皆、屈強な男たちである。
気さくな人たちで少し仲良くなる。
このグループは日本のツアーと違って
超豪華な食事もしていなかったし、
シェルパや料理番といった人々もいなくて
ガイドが一人いただけだった。
皆チョーラ越えを目指している。
どうやら雪もやんでくれたようだ。

暖かいチベットうどんの夕食に、
ちゃんとしたベット!いうことなしである。
ところで、ニュージーランドグループの現地人ガイドは、
英語をペラぺらと話した。
が、その言葉は嘘っぽかった。そして、みんなと一緒に食事をした。
が、我々のシェルパは、隅のほうで一緒に食事せず、
ジャガイモに唐辛子の粉を付けてかじっていた。
ちょっと気の毒になったが、
シェルパは「わたしはこれでいいんだ」といった。
どうも現地人の間でのなにかがあるらしい。
我々のシェルパはほとんど英語はしゃべれなかったが、
とても実直そうで我々は、とても満足だった。

朝は一列になって、ともにチョーラを越える。
峠の下まで来て絶句。
そこはほとんど九十度の岩のがけで、
終わりの見えないほど高いところ。
石が落ちてこないのかとシェルパに聞いたら、
凍っているから大丈夫という。
本当に一歩づつ岩をつたって、命綱もなく、
サーカスのようにシェルパに手を引っ張り上げてもらったり。

下を見てはいけない。めまいがするから。
登る伱から小さい石が足元から崩れていく。
途中でギブアップしそうになったが、引き返すことはできない。
一歩足を踏み外しただけで何百メートルも下に落下してしまう。
シェルパは重い荷物を持ちながらも先頭に立つ。
冷や汗をかきながらも、懸命に手と足を駆使して登る。

とうとう上まで来た。
少しずつ這い上がって登りきるとやがて達成感と
全員の無事の喜びで脱力しながら雪の上を寝転がった。
少し休憩を取った後、
山を少し登って南面から北面に今度は下りてゆく。
ここもかなりの高度のはずである。
相変わらず頭がガンガンする。
シェルパに「頭が痛くはならないのか」ときくと、
「チョーラを越えると、いつも少し(!)頭は痛くなる。」と答えた。

人にあまり見られていない万年雪の純白の世界ではしゃぐのは
極上の喜びだった。来たかいがあった。
少しずつ雪の中を下りて行った。
夏限定の山小屋が温かく迎えてくれた。
(つづく)
2013.08.20

簡単ではない!ヒマラヤの旅 その4

次の日は快晴だった。昼から雲が出るので早朝のうちから登るとよ
い。と宿の主人に言われる。荷物は宿に残していよいよゴーキョピ
ークに登る。

さすが標高5000メートルを超えると、
一歩登るごとに胸が苦しい。
ほとんど45度の坂だ。心臓の鼓動と相談して、地球を円形に
見渡しながら、そのピークに登っていく。

そのピークは宇宙に近い。
地上とあまりにも離れているため不安になる。
体が壊れそう。
一歩一歩ごと慣らしながら新しい体験をしていくしかない。

一気に登りたかったが、
妻が、頭が痛くて呼吸も苦しくて倒れそう。というので、
坂の中腹で少し休む。何とか残りの坂を登り終えると、
ごつごつした岩の上をチョルテン(チベットの色とりどりの旗)が
おめでとうというように張り巡らされていた。

雲が早く流れる。
360度見渡せるゴーキョピークに着いたのだ。
ヒマラヤ連山、エベレストも見える。下には氷河も。
下界はここからはるか前方で下方。
まったく想像をできない隔たりがある。
雲の上と下の世界のようだ。

眺めを満喫するも束の間、10分くらいすると雲が出てきた。
雲は瞬く間に風景を遮断し、
あっというまに我々も雲に包まれてしまった。
ほとんど視界ゼロ。ギリギリセーフだったのだと気付いた。

帰りはこんなに簡単だったのかと思うほど、単純な道だった。
少し下がるだけで頭痛からも解放されるような気がした。

宿に戻ると一人、シェルパが待っていた。
「お前はラマの子分じゃないのか、残ってくれるか」というと、
よくわからない英語で、実直そうに、「大丈夫」という。
氷河を渡って、チョーラの峠越えを案内してくれるという。
あのヤク(ヒマラヤに生息する牛)も登れないといわれる難所である。。

この時点ではチョーラ峠越えについて、
まだ二人とも現実にはどういうことなのか
わかっていなかったのであった。
氷河の上を歩くとは、考えただけでもわくわくした。
明日の昼には氷河を超えようと約束したが、
雪次第では越えられないかもしれないという。
不安になりながらもひとまずは眠りについた。
2013.08.13

簡単ではない!ヒマラヤの旅 その3

ガイドのラマは、
テントをナムチェバザールまで取りに行くと言う。
もう、星が瞬き始めていた。
お星さまがギラギラ輝く7色の宝石箱
の下で寝袋から顔だけ出して寝るのは格別。
こんなきれいな星空で心が洗われるよう。
...ただ、全身が寒くて眠れない。
夜は-10°Cくらいだろうか。
ここは天国と地獄がいとも近くに存在しているようだ。

夜が更けようとした頃、やっとラマがテントを持って到着。
若者だから仕方がないのかなと自分に言い聞かせ、
テントを張ったのだが、
...テントと言っても貧弱、棺桶に寝ているような
、低くて、薄いビニールのせいぜい1000円くらいのやつだった。
固い地面に寝たが、朝までぐっすりというわけにはいかなかった。

やっと朝になる。
朝食は、またもやインスタントラーメンである。
日本のそれより格段に味は劣る。
ただ野外で食べるので、気はまぎれる。
目の前は美しく広大な自然だ。
ラマは、日本人の登山ツアーにコックとして
同行したこともあると言っていたので安心していたが、
それにしてもなぜインスタントラーメンばかりなのか。

食事のときはがっかりした気分になるのだが、
あいかわらず、美しい自然に魅せられ、希望をもって進んでいた。
途中の山小屋では、
チベット語で談笑する地元の人たちの会話の響きを楽しんでいた。

途中、日本人の登山ツアー客と山小屋で一緒になった。
10人ちょっとくらいの団体だったが、
その食事は、素晴らしかった。
そしてこれだけの食糧をどうやって?と首をかしげるくらいだった。
現地の人も簡単なカレーとじゃが芋くらいなのに...と、
素晴らしいごちそうを尻目にインスタントラーメンをすする。
そして山小屋ではなく、その広場にテントを張って寒々と寝た。

ラマが2,3日前から私を呼んで、
山小屋の台所の裏で困ったことを言うようになった。
燃料が足りないのだという。
山小屋の主人から買うから、もう100ルピーくれという。
仕方がない。
日本円では大したことにないお金だ。
そして次の日は、もう200ルピーくれという。
高いところであればあるほど運賃が加算されて燃料も高くなるのだといった。
そして、きょうは、もう300ルピー足りないという。

何かおかしい。が、どうしようもなかった。
エベレストを臨むゴーキョピークを目指したかった。
ところがここでもラマは妙な事を言い出した。
「あなたがたの体力ではゴーキョピークはとても無理である、
だから、あしたはもう引き返そう。」なんだか、
ナムチェバザールではへりくだっていた態度が、
見事に尊大になっている。
高度4000メートルを超えた地点で、
頭がガンガン、顔がパンパンになってきていた。

<顔がパンパン>
高山病である。加えて夜はいつも寒くて眠れない。
そんな高山病の我々とは対照的に
ラマは平気な顔をして、倍速でも登れるという風である。

ゴーキョピークは5000メートルを超える。
でもどうしてもあきらめたくなかった。
日本人の登山ツアー客は確か、山小屋で一生懸命検査をしていた。
高山病になったら、命に危険なので、
すぐにヘリコプターで「さようなら」なのだそうだ。
ヘリコプターのチャーターは100万円かかるが、
保険に入っているので安心なのだという。
色々なことが頭ををぐるぐる回る。
これはカルマなのだろうか。
ここまでしてきたのにやはりあきらめなければならないのか。

毎食のインスタントラーメンにも辟易した我々は、
次の日単独で坂の上にある別の山小屋に朝食を食べに行った。
行ってみるとなんとそこは、
コンチネンタル・ブレックファーストのでる普通のホテルで、
立派なガラスの温室があり、暖かかった。

そこの主人にガイドのラマのことを話すと、
彼は英語で「ラマのことなら知っている」と言った。
「あいつはナムチェバザールで知り合った女性と関係が持ちたくて
彼女の家の庭にテントを張って、ねばっていたんだ。
うちにもガスボンベを売りに来た。」
私はそうかと腑に落ちた。
我々の持っていたガスボンベを相場の2倍で売っていたらしい。
他にも荷物や食料をいろいろ売りさばいて小遣いにしていたらしい。

宿の主人は、ゴーキョピークは、
ここから半日も歩かないところにあり、今夜ここに泊まれば、
明日はピークを目指せるという。
ラマはゴーキョピークはまだまだだと言っていたのに、である。

私の心は決まった。
荷物を置いてある山小屋まで戻り、ラマを問いただした。
「あなたは本当にガイドか。
あの山は何という山か、きいてもこたえられなかったじゃないか。
いつも外に寝させて、お前は家の娘と夜這いしていたのか。
上の宿の親父がそう言っていたぞ。
ラマ、俺の目を見ろ、ガスボンベはどこへ行った!」
ラマはうつむいて、キレたように走り出して山を下りて行った。
後は、シェルパと我々3人が残されたが、気分は明るかった。ゴー
キョピークに行こう。
2013.08.08

簡単ではない!ヒマラヤの旅 その2

暗闇の中、雨がしとしと降ってきた。
雨水に足元を濡らしながら急な坂の岩の道を登っていくと、
明かりが見えてきた。
あれが最後の宿場町、ナムチェバザールだ。
ここは標高3000メートル以上あり、エベレスト登山の起点となる。
これより上は、ただの山小屋しかない。

夜も遅く、暗闇に家が立ち並ぶ。
ゾウが体当たりしても壊れないほど頑丈な扉を閉めて、
皆静まり返っている。
どこかまだ開いている宿はないか、道の端まで行ってみたら一軒明かりが見える。

ドンドンと叩いてハローハローと英語で叫ぶ。
重い扉が開いてろうそくを付けて出てきたのは
皺だらけの大柄なおばあさんであった。
魔女のような皺だらけで歯のない顔、ぎょろっとした目。
「今晩泊めてくれ」と身振り手振りで言い、中に入ってやっとひと心地。
階下の部屋に通され、そのまま眠った。

次の朝、朝食を頼んだ。
ここはホテルのようだが、泊り客は誰もいない。
建物と言えば、急な斜面の岩の上に建って、
後ろに行くほど斜めに下がっていて、
地下3階まで清水の舞台のように丈夫な木組みでできていて、部屋は多い。
不思議な造りであった。

おばあさんは、英語を話し、
家族でこのホテルを経営しているが、お客は来なくて、
大家に毎月膨大な家賃を払わなければならないのだといった。
ネパールの相場を考えると、その金額に私は気が遠くなりそうであった。
(後から知ったのだが、後ろが低く坂になっている建物は
妻に言わせると風水的には最悪らしい)

さあトレッキングだ。と思ったが、問題があった。
パーミットはないのである。
正規ルートからは、数回、関所を通らねばならず、
そのことを宿屋のおばあさんに相談すると、
「待ってて頂戴、何とかするから」と、2人の男を紹介してくれた。

ひとりは20代の青年で、名前を、何とかラマといった。
(以後、ラマと呼ぶことにする)
この男がガイドを務めるという。
もう一人は年配に見えたが
実は若いのかもしれないがっちりしたシェルパであった。
この2人を雇うことにした。
正規ルートではない抜け道をよく知っているということであった。
相場よりやや高く交渉し、前金を払うと、
さあ明日はいよいよエベレストに向かって出発だ。
心がはずんだ。

次の日は晴天で、我々4人はどんどん坂を上って行った。
山の尾根伝いに歩くと、下のほうに正規ルートが見える。
関所が何か所もあり、人がたくさんひたすらに登っていた。
我々は、何千メートルも下の川や山々を眺めながら
楽しい「天上の道」を登っていた。

山の上にも小さな家があり、夕方近くになったので、
我々はその家の庭にテントを張らせてもらうことになった。
空を見ると、月がきれいに見える。
月の模様まではっきり見えた。
顔が宇宙に入るような美しさだった。

突然ラマが叫んだ。「あっテントがない!ナムチェバザールに忘れてきた。」
(つづく)
2013.08.02

簡単ではない!ヒマラヤの旅 その1

以前、一生に一度、と思い(実際は3度だったが)私と妻は、
ネパールトレッキングを試みたことがある。

ネパールのカトマンズ空港に降りたときは、
首都なのに牛が草をはむのどかな空港に降りた気がしたが、
トレッキングの始発の空港に降りたときは、狭い谷に急降下。
まるでジェットコースターに乗っているようだった。

最初、山をかき分け谷に降りた後、
滑走路が上り坂になっているので、古いエンジンを全開して徐々に上昇し、
滑走路に入る。滑走路は上り坂の山の斜面(!)にアスファルトを敷いただけ。
よっぽどの凄腕パイロットでないと登れない滑走路のようだった。
こんなところだと知っていたら、バスで一週間かかるが陸路で来たのに。
よっぽどの秘境世界に来た気分。
チベット文化圏である。

チベットの中央部、西の人たち(ポカラとか)とは
少し雰囲気が違う中央部は、あのミラレパの修業した山々がある。
光明の伝統は、ティロパからナロパへナロパからミラレパへと受け継がれた。
そしてネパールでもミラレパは人々のヒーローであり、
やはりチベット文化圏なんだという感動ににた思いを抱く。

ここに住んでいるチベット系の人々は、日本人そっくりなので、
私たちに親しみをもって村に一つある洞窟のことを誇りをもって、話してくれた。

私たちに話しかけてきた彼が言うには、
洞窟に瞑想する人は、カトマンズの仏教寺院の許可がいるが、
許可は村人がサポートするので、すぐにとれる。
3年3か月3週間と3日人に会わず、その洞窟にこもって瞑想する。
食事は村人がすべてサポートする。そして晴れて満願成就すると、
カトマンズの仏教本部の僧侶となれるというわけである。

そのほか、洞窟は至る所にあり、今でも瞑想者がいるような気がする。
そして、やっぱりすごいと思うのは、
そういったことに対するサポート体制が、整っている社会だということである。
瞑想にかかわらない普通の人々も支援者として精神世界に参加しているのである。
先週、リンポチェがこの村に来たぞ。と冗談を言ってのける。

ところで私たちは、ヒマラヤを見ようと2週間のトレッキングに来たのだ。
しばらく行くと、関所に差し掛かる。
ネパールは、山の中腹に外国人用の関所(パーミット)を取り付けている。
荷物をおろし、トレッキングパーミットをとりだす。
あれ?あれ?無い。探しても肝心のパーミット(入山許可証)がなかった。

取りに帰るのはあまりにも時間がかかりすぎる。
2週間の休暇もふいになる。
よし、ここは交渉次第だ。絶対突破だ。とわけもなく戦う決意をする。

最初、パスポートを見せて、役人と交渉。答えはno!。でもここで
すごすごと帰るわけにはいかない。
1時間説得に粘ったが、効果なし。少し後退した。

いい考えがないか、知恵を絞る。
そこへ現地の10歳くらいの子供が通りかかった。
事情を説明すると、それなら抜け道があるという。
というわけで、山をかき分け、ゲリラのように道なき道を登る。

林の真ん中で、ここを下ると
パーミットを超えたところに出るという。
見つからないように、私はここでさようなら。といって、去って行った。
私たちは、降りていくと、元の道に戻ったようだった。

と、後ろから足音がする。
銃を持った男が駆け上ってくる。
「まて!」と言っているようだった。
その男は銃を突きつけ、またないと撃つぞといった。
それから5,6人の男が次々と捕まえに来た。
万事休すであった。
私たちは、関所破りとして、つかまり、
また元のパーミットに戻ったのであった。

そこですごすごと帰ればよいのだが、あまりにも悔しかった。
もう一度交渉しよう。梃子でも動かないぞ。
「私たちは友達じゃないか。世界中の人間は友達だぞ。ここを通してくれ。」
といったが、効果なし。
そこで初めて、パスポートというものをまじまじと見た。
日本人を安全に旅行させるようにと外務大臣がが要請している。
そうだ、ここをみせるのだ。

水戸黄門のように、そのページを開き、もし、危害を加えるなら、
メディアに訴えてやる!と一眼レフカメラをむけた。
カメラは効果があった。その時、妻も叫んだ。
「行かせないのは、あなたのコントロールマインドだ!」役人はついに折れた。
そして一言、「いいパスポートを持っているな」といった。

もう日が暮れそうになっていた。
少し戻って、宿に泊まってから、明日行けば?と言ってくれたが、
また捕まると嫌なので、ふりきってすすんだ。
標高3千メートル近くの強行軍は、体につらかった。
真っ暗な中でわたる橋げたは、ところどころかけていて恐ろしかった。
宿場に着いたのは、夜10時をまわっていた。
(つづく)