Oshoと瞑想

Oshoと瞑想 Dinpalの歩んだ瞑想の道 (ブログより)

oshoと瞑想 サニヤシンとなる

oshoのサニヤシン(弟子)となったのは、長い旅行の末、
アメリカのラジニーシプーラムにやっとたどり着いたときで、1982年夏、ワールドセレブレーションのなかであった。
ボーディ・ディンパル(覚醒の太陽)という名前負けしそうな名前をいただいて
サニヤシン(インドでは世を捨てて自分の主人となるという意味。覚醒した人の弟子)となったのであった。

サニヤシンになるには瞑想していなければなれないといううわさが飛んでいて、私は面接官に自分の瞑想体験を語った。
(その当時は瞑想が足りないという理由でなれない人もいた。)
実際、サニヤシンになる何年も前から瞑想には入れ込んでいた。
それはやはりoshoの(当時はバグワン・シュリ・ラジニーシ)「存在の詩(そんざいのうた)」に感動して瞑想を決意したのであった。
その本はチベットでの光明を得たマスターであるティロパ(988-1069)の有名な詩から始まるのだ。
今でもやはり感動的なので少しだけ紹介しよう。

マハームドラーはすべての言葉とシンボルを超越せり
されどナロパよ 真剣で忠実なる汝のために
今、この詩を与うべし

空は何物も頼まず
マハムドラーは何物にも依らず
また労せずただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり
私は当時の弟子の条件となる赤い服に身を包み、毎日ダイナミック・クンダリーニ瞑想をしながら世界中の山でヴィパサナ瞑想をして、
サニヤシンになる準備をした。ギリシャやトルコなどの人のいないところを長期間借受け、瞑想するのを好んだ。
ある時、グアテマラの火山の上の湖、サンチャゴアテトラン湖の真ん中にある小さな島を借りきって、渡し船もなく、
一人無人島でヴィパサナ瞑想をしていた時のこと、私の中で地球のパワーとクンダリー二が大きく共振し、
今こそOshoに会いに行くべき時と思い立ち、近くを通る渡し船を待った。
Oshoの言葉「師は現れる。弟子の用意が整ったとき現れる。
それは決して遅れることはない」という言葉が強烈に胸に響いてきたからである。

グアテマラからアメリカに、所持金が少ないので、真冬のニューヨークに飛行機で降りたは、
ー20度のなか、Tシャツに機内で配られた毛布を被って寒さをしのいだ。
ニューヨークの日本レストランで働いてお金を貯め、なんとか夏のセレブレーションに間に合ったのである。
このことを面接官に話すと彼は非常に驚き、喜んで、
すぐにサニヤスのマラ(木のネックレス)と名前を受けるよう取り計らってくれたのである。

さらばアメリカ

ニューヨークとオレゴンのラジニーシプーラムとの半年ごとの往復が始まった。
ニューヨークで働いてお金を貯め、貯まるとすぐにプーラムに行き、半年間ずつ長期のセラピーやワークショップを受けるのだが、
皆が行く夏だけでなく、冬に行くこともあった。
夏は、愛や瞑想を素晴らしくポジティブに受け取れることができ、楽しかったが、
冬はどうしても苦しい自分にも直面せざるを得ず、つらかった。底冷えのするみぞれ模様の雨の中で、
厳しい人間関係のエンカウンターで落ち込む自分を祝祭するのはむずかしかった。

セラピーと瞑想は、プーラムを離れてまた来るたびに、同じところから魂の成長は始まるのがよく分かった。
(日常生活でもニューヨークは充分幸せであったが。)プーラムのコミューンは素晴らしかった。
青春のように朝早くから夜遅くまでダイナミックな活動でフルに回転していた。
Oshoは常に体調が悪いらしく、弟子たちはそんなOshoに愛を送っていた。
愛はクールに山々を満たす。砂漠の山々はOshoの瞑想と弟子たちの愛で満たされた美しいエネルギーに満たされていた。
ハートからハートへ愛が流れていて、深い深呼吸のように、至福が砂漠の山々に広がっている美しい体験だった。


ラジニーシプーラム


1985年11月 Oshoがアメリカを追放され、ワールドツアーとして世界を放浪に出るころ、
私は4年間住んだニューヨークの生活を整理していた。
友と西と東に分かれ、私は東に行った。マンハッタンのど真ん中の高層ビルの14階からの夜景はもう見納めだ。
記念にコカ・コーラを2ℓ飲んでやった。
さようならアメリカ。さようならニューヨーク。
人間のいろんなエネルギーが渦巻いているこの街。
この街でドラッグじゃなくナチュラルハイでいられたのもOshoの弟子であったおかげだ。
Oshoを求めてギリシャに行こう。

空港から飛び立つ時 泪がこぼれた。

Oshoと瞑想 クンダリー二の上昇

きらびやかなニューヨークの街を後に、東に、
とりあえず以前1年住んだロンドンに降り、懐かしさと安らぎとを感じていた。
こんなに街がこじんまりと小さかったっけとなんだかかわいい田舎町に来たような気分になった。

Oshoは、ワールドツアー中で、ギリシャに行くらしいという情報はあったが、居場所がわからず、
その後、何の情報も入ってこなかった。私は1人ヨーロッパを南下した。
ギリシャからトルコへエーゲ海の岸辺にマンションを借りて、食料を1か月分買い込んで3週間のヴィパサナをするつもりだ。

ヴィパサナとは仏陀が弟子たちに与えたとされる非常に古い瞑想法だが、
やり方はシンプルでただ呼吸を見ているというだけの瞑想である。
これまでも様々なところで3週間のヴィパサナをしたが、
クンダリー二が上がっていく3週間目の強烈な体験をもう一度してみたかった。

3週間、人に会わないようにして瞑想を高める。

1週間目は混沌とした呼吸とマインドだ。(ほとんどの人はここで挫折する。)

2週間目から呼吸は規則正しく、マインドは静まる。
(心は安らぐが眠くなるのでますます覚醒しなければならない。この時マインドは最後の戦いを挑んでくる。)

3週間目からは呼吸はほとんど止まるくらい深く静かになり、さらなる覚醒が要求される。
(さまざまな悪霊や妖怪のようなものも襲ってくるかもしれない。)
眠らないで一瞬でも見逃してはならない。ボーディダルマが瞼を切った瞬間だ。

背中からは電気が昇ってくる。
クンダリー二だろう。
何回も何回も昇っていく。
ただみるのだ。
呼吸は静まり、覚醒は強くなる。
その覚醒こそがエネルギーだ。
もっとも強力なエネルギー。
最強のスピリチュアルエネルギーだ。
瞑想が深まった時、「観る者」を体験する。
その「観る者」こそ過去生から永遠に続いてきた「私」なのだ。
そしてこの「私」こそがこれからも永遠に続く不滅の魂なのだ。

体は強烈なエネルギーであふれている。不用意に人と会うことは危険だ。
どんなエネルギーの爆発があるかしれない。普段の生活にゆっくり戻ろう。
そのエネルギーは内部にとどまり、何十年も減ることがない。

これまでもいろいろなところでヴィパサナをやったが、この時が最も強烈な体験となった。
自然があり、しかも3週間プライベートを保てるところは、世界中探しても実はあまりないのである。
観光地は外見は素晴らしいが、雑多な人がひっきりなしに訪れるおかげでエネルギーが低く、
田舎町は自然があって人もいないように思えるのだが、そこに住んでる人々の好奇な対象になってしまう。

自然があってプライベートに瞑想できるところでは、瞑想が非常に効率的で、神秘の体験を深めることができる。
だが、その後、だんだん世間の中でも瞑想することで
さらに自分の瞑想の質を高めていけることも確信できたのだった。

Oshoと瞑想 エーゲ海の波の音

New yorkからロンドンへ、私はかつて巡った道を振り返るように
ヨーロッパを横断して丘の下に見下ろしたのはエーゲ海だった。エーゲ海は緑色で独特の美しさだった。
ギリシャでヴィパサナ瞑想を終え、私はギリシャの西伝いに船でトルコの西海岸に渡った。

国境を越えると物価が半分になる。
フランスから、イタリア、ギリシャ、トルコと渡って、どんどん物価が安くなった。
だが、トルコだけは、物価というものがわからなかった。

ギリシャのヒオス島からトルコのチャシュナへ船で渡った。

船を降り、入国管理を済ませると、バスターミナルであった。
やぎや鶏。犬がひしめき合い、女は黒いマントで目だけ出して、会話はあまりしない。
男は白っぽい服を着て、なんでも男が取り仕切っている。

私はアラビヤ文字だけの表示にくらくらしながら、「イズミール!」と、行先の町の名前を連呼した。
と、数人の男がやってきて、私の手を握って、連行され、バスの中に押し込んだ。

でこぼこ道を一時間走って、突然、外に下ろされた。別の男に今度は引っ張られ、
三叉路で次のバスに乗せられた。そのバスからまた下ろされると、そこは、街のようだった。


また別の男が手を取ってその街の汚い、ベット一つの狭い部屋に連れて行かれ、
ぶち込まれ、部屋代を請求された。

ミミズが這っているような、アラビア文字だらけでどこに着いたのかもわからない。
ここでは数字さえもアラビア文字で表示されていて、ただ柱時計だけが、私の読めるものであった。
とにかく目的地についたようだと思った。
しかし、これからどうしたらよいのか見当もつかない。

ホジャどん(ホジャ・ナスルディン…トルコの笑い話の主人公)の故郷は、
はて、こんなところだったのかと、まだ何がなんなのかわかっていなかった。

荷物を置いて、夕方外に出ると、屋台が並んでいた。屋台は分かったが、
とにかく、数字もアラビア文字で、途方に暮れた。アセチレンランプの匂い。
薄味の薄香辛料、薄オリーブ油のごくあっさりした食事だった。

このあたり、ギリシャから来るとすごくほっとするものだ。
ギトギトのオリーブ油には体がついていかなかったからである。

食べていると、見知らぬ男から「どこからきた?」と聞かれた。
「ジャパン」と答えた。何か話かけられていたのだが、ほとんど意味がわからない。

食事を終えて帰ろうとしてお金を払おうとすると、誰かが払ったという。
さっきの見知らぬ男が払ったのだろうか。

翌日、3人の男が朝早く訪ねてきて、街を案内してくれた。
しっかりとガードするように、私の手をかたく握って、色々なところをまわってくれた。
食事もお茶も全部おごってくれた。

彼らのやり方は乱暴だが、親切にしてくれているのだということが、だんだんわかってきた。
最初は恐怖でいっぱいだったが、だんだん感謝の念に代わっていった。

ガイドブックがないから、海岸沿いにエーゲ海を見ながら少しずつバスを拾う。
トルコに来て一か月にもなろうとしているのに、私は物価というものがわからなかった。
必ずどこからか見知らぬ男があらわれて、食事代やお茶代を払ってくれるからである。

一日に何回も、見知らぬ男たちに招待されるチャイハネ(喫茶店)では、いつも彼らが代金を払ってくれるので、ブラックティーが一杯いくらなのかわからない。

ひとりでレストランに入ると、必ず相席を申し込まれ、食べ終わると、いいからいいからと伝票を取り上げられる。
ときには、西洋式に生ビールを何杯もおごられた。決まって、すべて代金はむこうもちだった。

私が食事代を支払うということは許されなかった。
私は、日本から来た大切な客人というわけなのだろうか。
どこへ行くにも固く手を結んで連れて歩かれて、道に迷うことはなかった。

こんなに親切にされて、私には何も返すものがなかった。
親切にしてくれた見知らぬ男たちは、みな深い皺が刻まれ、人生や人柄を表現していた。
それはおおむね、正義と義理と人情。あの渋い高倉健さんも顔負けの人間味のある渋~い顔であった。

男の社会。朝はお茶を飲み、楽しく語り合う。昼も夜も。

私はさらに南下し、エーゲ海のビーチ、カレーというところで、やっと一人になれた。
ひとりになって、教えられたトルコ語を思い出しながら、海の家で泊まり、エーゲ海で泳いだ。

波の音を聞きながら眠った。

Oshoと瞑想 エーゲ海の黒い太陽1

いつもエーゲ海を見ていたい。
Oshoが訪れたエーゲ海は、今は、サニヤシン(弟子)たちの喧騒もなく、静かだ。


4DKの部屋を二ヶ月借りた。
マンションの四階にあり、海が見渡せた。
ここは別荘として使われていたところで、オフシーズンの今は、周りも静かである。
私は準備を整え、ヴィパサナに入りながら生活を立て直していった。

ミネラルウォーターと野菜を買い、プロパンガスを手配し、調理とシャワーができるようにした。
砂浜を歩き、エーゲ海の潮風を受けて朝夕散歩しながら心は静まっていった。

ニューヨークの仕事はハードだった。
だからこそ大金が稼げたのだが、Oshoの居所も相変わらずつかめないまま、
忙しすぎた日々から瞑想へとシフトしていくのは、何とも言えない気持ちだった。

それでも私はもうひとつの瞑想、oshoのタントラの本のなかにある、ダークネス・メディテーションを行おうと決めた。
ギリシャでは陽のエネルギーが生まれたが、この瞑想は、自分の中の闇を見ていく瞑想である。

第一段階では、自分の中の闇を見る。
第二段階は、自分の闇を通して世界を見る、成功すると世界は黒く見えるというものである。

まず、真っ暗な部屋を作る。カーテンを閉めて黒い布を貼り、真っ暗の中で目を開けて前を見る。
同時にヴィパサナもする。窓のないキッチンに閉じこもり、真っ暗闇の中で食事もロクに取らないで3週間瞑想した。

外側が黒いと内側も黒くなる

我々は内側に光を求める

外側から求めた光はニセモノだ

人を幸せにするように見えるが本物の光ではない

あなたの内側は光ではない

外側の光で作った映像は、内側のマインドを太らせる

内も外も闇であれば、マインドは映像を作る材料がなくなる

内側の闇は、ノーマインド。

宇宙からこの地球に来た時のあなたの本質だ

目を開けても本質が残れば世界は黒く見える

少しでも光があると、目が慣れてフクロウのように少しずつものが見えてくるので全く締め切らないといけない。
夜も昼もわからず、壁に飾ってあったカレンダー付き柱時計を見ないと何日目かわからない。
だが時間はたっぷりある。
私は目を開けて真っ暗な世界をたっぷりと見つめた。

(つづく)

Oshoと瞑想 エーゲの黒い太陽2

真っ暗な空間の中で目は暗く光を失い、体は鎮静している。

一日中寝ていてもいい。体を動かすのは最低限。

外側の刺激は何も心を打たない。

生き物として初めて落ち着いた次元にいるので気が楽だ。

外側の刺激が内側を当惑することもない。内側は静かだ。

真っ黒でとてつもない落ち着きだ。

この瞑想のあとはその人の目の光が失われる。

光は外から来ていた。今や内側の闇から光を見ている。私はこの落ち着きを手に入れた。
私の目に光はない。あのグルジェフやクリシュナムルティのように。ただ暗闇から光を見上げる。

3週間後、おそるおそるカーテンを開ける。
この時、恐るべき現象が起こる。
暗い目で光を見るとき、そこには暗闇が見えるのだ。


エーゲ海は黒かった。太陽はネガフィルムのように黒い玉のように見えた。
私は少し成功したのだ。

光は少しずつ増してきて正常に戻った。
だが、私はいつでも暗闇化しようとすれば出来た。世界は黒くなる。

ダークネスの闇は、エーゲ海によく似合った。深い青緑から黒に変わった。
灼熱の太陽は、黒い玉になる。

幻想はなく、深い静けさがある。エネルギー的現実だった。

イラン入国

トルコをバスで東に行くと、だんだん砂漠になる。
草や木も生えていて、そこらじゅうに遺跡が埋もれているのが見えるが、誰もそれを掘り出そうとはしない。
ああ、古代文明が忍ばれる。大きな崖を下りるとイランの入口である。

入国の時、音楽は禁止だとギターを取り上げられる人もいた。
完全なるイスラム。西洋かぶれは処罰される。イスラマバードには、夜到着。
なんとなく華やかな雰囲気が残っていた。
女性たちは、黒いマスクを外してほほ笑みかけてくる。
首都は不思議な雰囲気だった。

最もイスラム的な世界がアメリカ的になり、再びイスラム的になるところだった。
イスラム革命後、パーレビ国王がフランスに追放され、イランは再び元の体制に戻ろうとしていた。
道には、イスラムの憲兵が所々で見張りをしている。

街を歩いていると、黒い衣服の中から赤い衣服を覗かせた女性がこちらにおいでと誘う。
黒いマスクを外し、顔を出す。
私は何の商売か?と思ったが、ただの女子学生であった。

英語での楽しい語らいが始まる。
たくさんの女性たちが話したがっていた。
裏通りの馬小屋の中で戯れる。と、憲兵が走ってきた。
女性たちは慌てて黒いマントをかぶる。

この女性たちはパーレビ国王のもと、アメリカ式の自由を謳歌したあと、突然のイスラム革命により、
顔を隠して歩かなくてはいけなくなったのだ。

私は最後に、ベールに包まれた目より下の顔をのぞきこみ、話をして、ホッペにキスをした。
ヨーロッパでは神秘の顔とされているイランの女性たちは、やはり綺麗な人たちであった。

パーレビ国王が解禁したアルコールもディスコも禁止されている。
朝には何千年も続いたコーランの祈りがスピーカーから流れた。

安宿のベランダから早朝に聞こえるコーランの祈りは非常にゆっくりと言葉を伸ばして歌う。
沈黙と特別な発声。それを聞くといつの間にか私は瞑想状態に入り込み、
ダークネス・メディテーションの続きをしているような気分になった。
ベランダから見える空が黒くなった。

コーランは第3の目を打つ特別な歌だった。
イランではしょっちゅう泥棒にあったが、コーランを聞くと、盗まれたときの不快感がどこかに行ってしまうのである。
本当に心が救われる思いだった。

朝夕のコーランが聞けないと思うと、アメリカナイズは良くなかったと思わざるを得なかった。
だが女性達にはどうだったのだろう。
複雑な気分になりながら、皆が行く観光地の南ではなく、カスピ海を目指して北へ向かった。

Osho カフェにて (エネルギー勝負の巻)

Oshoの講話の中に ゴータマ・ブッダと大泥棒が出会った時の話がある。

うろ覚えだが、確かこういう話だった。

漆黒の闇の中、有名な大泥棒(というか追いはぎ)にブッダは出会った。
「命か、金か!」
大泥棒は叫んだ。

ブッダは黙っていた。
「俺はここらでは有名な大泥棒だ。何人もの人を殺してきた。俺は命を懸けて泥棒をしている。
さあ、金を出せ、さもなくば命はないぞ。」

ところがブッダはこう返したのだ。
「私も命を懸けて、瞑想をしている。もしそなたを改心させられなければ、そなたのために命を落とす覚悟である。」

数秒の沈黙の後、その大泥棒は改心した。ブッダの前にひざまずいた。
そして、それ以来ブッダの弟子となった。

ここでは、ブッダのとてつもない愛をこの大泥棒は、感じたというのだが、
つまり、ここでブッダはエネルギーの勝負に出たわけである。

いつでもどこでも重要なことはエネルギーが決める。

理屈ではない。

もし、半端なエネルギーであれば、間違いなくこの大泥棒に殺されていただろう。

こんな講話が頻繁に聞かれるインドのOsho コミューンでは、
ほとんどの人が、こんな話を共有している。たぶんこの話がベースにあったのだろうと思われる
笑い話を一つ。

ある時、私が瞑想を終えて、Osho カフェでお茶を飲んでいると、Oshoコミューンで少し知りあった女性が久しぶりに姿を現した。

「久しぶりだねえ」というと、なんでも彼女は、これまた真面目に瞑想している彼氏とカップルで、数週間、北インドを旅行に行ったのだそうだ。

ン、彼のことなら知っていた。いかにも真面目そうで、初めて入ってきた人に、Oshoの言葉を引用しながら、熱心に話をしていた。私と違って、話術が得意で、色々な人とわけ隔てなく接していた。英語にも堪能なようだった。

北インドと言えば、日本人には厳しいところだと私にもわかった。
以前、北インドで騙されまくったこともあった。

「それでどうだったの」
とその内容を聞くと、「それがね、」
と彼女は語り始めた。

なんでも、旅行代理店と称した店のツアーがダブルブッキングで、払ったお金も帰ってこず、
大トラブルになったそうだ。

そこで、その店の店主と大げんかをしたという。
一時間に及ぶ大げんかで、そのうえ何も解決せず、お金も帰ってこなかったという。

「でもね、それが悔しかったんじゃないの。」
と彼女は言った。
「そういう場合、男の人が何とかしてくれると思っていたの。だけど、彼ったらね」

何でも、瞑想第一のその彼は、その喧嘩の一時間もの間、
店主と彼女の間に座って、ただ瞑想をしたのだという。

つまり、ブッダのように、エネルギー勝負に出たというわけである。
ところが、その場合、事態は何も解決せず、彼女に呆れられただけであった。

「そういう場合って、瞑想している場合じゃないと思うのよねえ。」
私もそう思った。
そういう場合は、店主と戦って、勝利を得るべきなのだと私も思った。

「あははは」
お茶を飲みながら、笑いあったことであった。
Osho コミューンでの楽しいひと時であった。

Oshoと瞑想 カスピ海へ

イスラマバードから2日もバスで北上するとカスピ海である。
だが、雪が降っていて凍えるように寒い。対岸はロシアだろうか。だが、霧が深く視界が悪い

ここに来た目的はと言えば、ズバリ、キャビアを食べることである。キャビアは一流ホテルでしか食べることができないし、第一庶民が手の届く値段でもない。高価で貴重なものとして黒い真珠と呼ばれている。

日本では大変高価だが、果たして現地ではどうなのだろう。それから、本場の味は、日本に輸入されたものと違うのだろうか。漁師から直接買って食べようと思い、わざわざここまで来たのである。

宿は2,3件しかなく、泊まった宿で注文してみたら、ああ、ああ、と冷蔵庫から大きなビンに詰まったものを出してきた。皿にもって、パンにのせて食べるという。

それは、キャビアはこうであるという私の常識を覆した。黒い小粒な卵ではなく、いくらより大きめで色は灰色である。かなり脂っぽく固まっている。塩味もつけないのであまり味はなかったが、私はモリモリ食べた。


なんというぜいたくな。そのビン、全部でいくら?値段!と聞くと、値段?としばらく考えなければ答えが出ないほどのんびりした所。非常に安い!やっぱり現地は違う。

雪景色を眺めながら、キャビアを毎日いっぱい食べて、ぜいたく気分である。食事は1点豪華主義。キャビアのみ毎日食べ放題。これで、もう一度ダークネス・メディテーションができれば、最高だと思った。

だが、宿の理解は得られなかった。暗くした部屋へ宿の主人がさいさんノックして入りたがる。どうも変態おやじ、ホモセクシュアルだ。こういうのはよく出会う。

暗くすると、彼は、瞑想ではなく、いかがわしい想像をしてしまうらしい。私はうるさくてかなわんと思ってキャビアをたくさん買い占めてその町を離れた。

ダークネス・メディテーションで真っ白い雪景色が真っ黒に見えれば、成功と言えるのに、瞑想環境が整わなかったのは残念だった。後に私はたっぷりダークネス・メディテーションを体験できるようになるが、それについては次回にしたい。

船で対岸のロシアに行きたかったが、雪のため、船は当分欠航。やむなく南下した。

Oshoと瞑想 ダークネス・メディテーションとバンパイヤ

その後のことになるが、Oshoコミューン滞在中には、ダークネス・メディテーションを毎日、二時間、二年間くらい、自宅を改造しやり続けたことがあった。

今やっているヒーリングはその時の経験から学んだのだろうか。最近クライアントを見ながらダークネスになる。

するとなにかもぞもぞいるような気がする。私はその人のオーラを回転してみてみた。すると様々な動物が見えるではないか。

実にカラフルなリアルな画像で、緑色の恐竜のようなもの、白い目が小さなおばQのようなもの、五芒星のひとでのようなものが張り付いていたり、頭の大きなアリのような人、大きな茶色いサナダムシのようなもの、黒い砂の塊のようなもの、そのほか悪魔のようなものも多い。

決まって人間より数倍大きくてたくさんいる。しかも違う人間には違う形態のものがいるので、決して同じものを見たことはない。

各人、各人に皆違うものが取り囲んでいるのである。それが、その人のエネルギーを吸って食べているから丸々太っている。

私はこれは霊能者も見たことのない、4次元の世界に住んで人間をエネルギーを食い物にしている捕食者、バンパイアーだと思った。(ネーミングは無難な名をつけただけであるが。)

歴史家ゼカリア・シッチンは、何千年も前に宇宙人によって、遺伝子操作されたのが、今の人間だとほのめかしている。

エネルギーを吸われるだけの奴隷として、アヌンナキという宇宙人によって60回以上遺伝子操作をして、人間が作られたという話も聞く。

我々のエネルギーを吸っている宇宙人は、昔から地球に住んでいる異生命体と呼べばいいのだろうか。とりあえず名前はバンパイアーとする。

このバンパイアーを取り除かない限りいくら何をしても生命エネルギーは失われ、どんな精神修行のセラピーをしても完成しないのである。

なぜなら、私は2種類のバンパイアーを確認した。ひとつは肉体、感情エネルギー。ネガティヴな感情や不安、恐怖、悲しみを食べている黒いもの。もう一つは、精神エネルギー。精神的成長や瞑想をしようとするとそのエネルギーを好物として集まる白いバンパイアーである。

バンパイアーの種類はまだまだ多い。これは大変なことである。何千年も前から地球にのさばっているものを取り除くことはできるのだろうか。

わたしにとって、それぞれのものを見つけたら、一分でできるのである。
ダークネスでバンパイアを吸収したり、振り回したり、自由自在にやっていて、いろいろ観察したあと、消すことができるのである。私が知っている多次元から永遠に消滅するのである。

これをバンパイアセッションとして実施中。決まって見違えるように疲労がなくなり、心身爽快。
未来までポジティヴになったという報告を聞いている。

どんな人間にも最低1、2種類のバンパイアーがついている。またモノや場所にもついている場合がある。地下や上空に円盤型の基地を持っているのもいる。

私が見つけたものは、すべてリセットして、どんな大きな基地でも消去されていく。
これで未来が変わっていくと確信している。

Oshoと瞑想 トルコ再入国 コンヤのワーリング その1

トルコのコンヤといえば、精神世界ではスーフィズムが有名である。
なんといっても有名なのは、ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207~1273)で、彼の本は、たくさん英訳されている。

せっかくなので、ひとつだけ紹介してみる。
「僕たちの流儀」

肉体の耳から流れ込む雑音で
心の耳を塞いでしまわないで
心の耳はとても華奢にできている
だからもう何も聞かないで
力を抜いて 何も考えないで
遠くから響いてくる - 『還れ!』
あれは僕たちを呼ぶ声 いつの日かきっと
僕たちは還るのだろう あの呼び声の許へ
こんな言葉やあんな仕草を交わしながら
僕たちはいつも旅の途中にいる
どうして心は こんなにも空高く飛べるのだろう
                 体は泥にまみれ地上に朽ち果てるのだろう
                それでも心は 海の上だって軽々と歩くのだろう
                    その昔 イエスがそうしたように

ちょっとした詩や寓話などが残されているのだが、それぞれが大変興味深い、瞑想的境地を表している。 アメリカン・ニューエイジの人なら英訳のルーミーの本を1、2冊は書棚に揃えてあるだろう。

スーフィズムの真髄はワーリング(ぐるぐる回ることを1時間以上続ける)なのだが、コンヤはワーリングのメッカとして知られている。近くまで来たのだからぜひ寄ってみたい場所であった。

イランからもう一度トルコに再入国した。ルーミーの時代にはペルシャと呼ばれていてイランとの国境はなかったと思う。
途中クルド族移住区を横切り、トルコから内陸部、コンヤについた時は少し寂しかった。

トルコは、西部は西洋化が進んでいるが、イランに近い東部や内陸部はまだ素朴な世界であった。コンヤは何の変哲もない田舎の村。赤黄色い土だけの砂漠のようなところだった。

だが、小さいプレハブのような家にツーリスト・インフォメーションと書かれてあったので、かけあってみた。「ワーリングを習いに来ました。どこへ行けば良いのでしょう。」

そこにいた高校生くらいの若い男の子が、流暢な英語で答えた。
「驚きだ。そういうシステムはない。あと9ヶ月後に市民ホールでワーリングの祭典が開かれる予定です。残念ですが。」という。

スーフィズムは、誰でも受けられるカルチャーセンターのようなものではないらしい。
「では、ワーリングのできる人はいないか」
と聞くと、一人の青年を探し出してきてくれた。小さい頃からワーリングをしていて、祭典に毎年出ているという。「外国人に教えるというシステムはない。残念ですが。」彼も同じことを言う。

そこをどうにか頼み込んで、ちょっとでもいいからというと、彼は渋々、少しだけ、教授してくれることになった。

Oshoと瞑想 コンヤのワーリング その2

ワーリングは、見ているとなかなか美しいものだが、やってみると見ているのとは全然違う。

ワーリング・ショーでは、長いスカートがひらひらと舞い、いかにもすぐできるような気がする。小さい子供なら何度もぐるぐる回るというのをやってのけるものだ。

だが、一時間も二時間もということになると話は違ってくる。高速道路を1時間、暴走するような気分である。10分でも目が回るのにどうして1時間も!という驚異的な感じがする。回ることで、何か精神的な奥義が得られるのだとすれば、ぜひやってみたい。

教えてくれるといった彼は、ツーリスト・インフォメーションの庭で「少しだけ」といって、教えてくれた。
まず右足を左足の前に出して、左後ろに右足を置き、左回りに体を回す。この繰り返しだといって、ゆっくり教えてくれた。

私は、言われた通り、体をくるくる回し始めた。はじめはゆっくり、次第に加速度を増す。この時中心を見る。体の中心は回らない。中心にとどまりながら、周囲を見るのだ。中心にとどまれば、目は回らない。

私はかつて独学で(?)練習したせいもあり、10分くらいまわって見せる。加速度がついて、左足が痛くなってくるのは不安材料だ。終わった後、しばらく目が回っていたが、何とか倒れないで棒立ちになっていると、周りの風景は、静止していった。

どうか見本を見せてくださいというと、青年は庭で回って見せてくれた。

おお、迫力がある!体が丈夫なのか、がっちりと重く安定感があり、大地に根差しているようだった。スムーズな動き!庭一杯を使って流れるようにまわってくれた。

目が回らないのか、石の近くで止まって、自由に進路を止められるようだ。30分くらいまわって見せてくれ、黒いひげずらから真っ白い歯を見せて笑った。

天と地とをつなげればよいなどと、細かいアドバイスを丸1日かけて、教えてくれた。


私はどうか弟子にしてください。衣食住はこちらでもつので、と言いかけたが、さすがにこの片田舎で数年過ごすのは自信がなくなった。

コンヤでは、短い滞在だったが、スーフィーの秘密はこんな何でもない砂漠を舞台に単純な物語を使って人々を目覚めさせていたんだなあ。と思った。

ロシアの神秘家グルジェフが、若い頃トルコに来てスーフィーダンスを見たというのは、このコンヤであろう。彼の肉体、知性、感情の統合のためのグルジェフ・ダンスの中にもワーリングが一部取り上げられている。

Oshoも若かりし頃、スーフィーの傾倒したことがあり、スーフィー教団にも滞在したことがあるということだ。というわけで、現在では、Oshoの瞑想プログラムの一つとなっていて、インドのOshoコミューンでは、毎日でもワーリングを行うことができる。

この片田舎の砂漠にあって、13世紀以来、ひそかに世界中の精神世界に強い影響を与えつづけているというのは不思議な気がした。

Oshoと瞑想 赤い服

Oshoの居所はついに掴めなかったので、いよいよ東京に帰ろうと、フランクフルト経由の成田行チケットを買った。

日本に着いてみるとそこは、景気のよくなりつつあるところだった。その当時は、チャネリングや心理学を中心にニューエイジのセミナーは大反響。どこも満員状態だった。どこでもお客は大賑わい。精神世界の業界は大きな支持層を獲得するように見えた。

そんな活気のある東京にアパートを借りてのんびりした。

アメリカで知り合った知人とあったりしていたが、そろそろ働かなきゃあいけない。と思ってみると、私の姿が、人々から見るとかなり異様な姿であることを認識し始めていた。

電車に乗ると、街を歩くと、人々の突き刺すような視線が目に飛び込んでくる。それもそのはず。上から下まで赤で、下着から靴下まで赤で統一されている。おまけに首には和尚の顔写真付きのマラを首からかけている。髪は短くしていたが、この格好では誰も雇ってくれないような雰囲気だった。

和尚の弟子となるには、3つの掟があった。すなわち
1.赤い服以外着ないこと。
2.和尚のマラを首にかけること
3.一日一時間以上の瞑想をすること



この掟には、その時どきのサニヤシンの成長のための理由があったのだが、そのことはここでは割愛させていただく。

でもこれを実践すると、日本では完全に浮いた人となる。外国では個性ということで、そのうち誰も気にしなくなるが、日本では赤であれ白であれ、一色にすると怪しい人となる。

赤い服だけ来ているとファッションに興味はなくなり、より瞑想に近づきやすくなってくる。そして人々は相手の服を見ることをやめ、次第に相手の本質を見るようになるのである。徐々に周りの人の本質に気づくようになる。

しかしそれにしても男の私がなんで赤を?途上国では、女性なのか同性愛なのかという勘違いのトラブルに絶えず悩まされたが、先進国ではさほど問題にならない。それよりも本人の性格や人柄などを見る人が多かった。

だが日本では…気違いか、カルト宗教の手先か、限りなく怪しい人となり、ただ遠ざけられるのである。これは最大の修行の場所か、とも考えたが、少しずつ私の服も変化していった。

Oshoと瞑想 トータルに働く

赤い服じゃあ、日本社会に馴染めないから変えなきゃあと思っていたら、赤い服のまま働けるところがあると紹介された。

ニューヨークで知り合った友人の紹介で、とある建築会社に入社し、現場作業員となった。仕事は防水工事で、肉体的というより、技術的な仕事だったので、技術を取得するまで、当分ヘルパーのような役割だった。

仕事は忙しく、毎日働かされた。何人か和尚の弟子(サニヤシン)もいたが、あまり真面目じゃあなかった。私はサニヤシンとしての生き方、なんでもトータルに生きることを実行していた。つまり、真面目に働いた。

和尚は確かこう言った。

なんでもトータルに行いなさい。全身全霊を込めてトータルに。食事の時はトータルに味わう。歩くときは注意深くトータルに。仕事するときはトータルに。なんでもトータルに行ったらマインドは少なくなる。後悔はなくなる。生は充実してゆく。空虚に感じるのは、あなたがトータルに生きていないからだ。

アメリカのラジニーシ・プーラムでは、朝は5時半に起き、連続して瞑想を行い、夜11時まで活発に活動していた。週七日、瞑想したり働いたり、連日毎日が祝祭だった。

そのうち私も技術的な仕事もできるようになり、七階建てのビル建設に関わることを任された。そこは複雑な建築物で、よく言えば、かっこいいビル建築だった。だが、途方もない労力を必要とする。ああしたら、こうしたら、と悩みながら防水材を外壁に化粧仕上げするために、トータルに働いていた。

夢中になって働いていると、しばしば夜遅くなった。ある日、夜遅くまで仕事と格闘していると、誰かが入ってきた。

「あ、ディンパル、お前、遅くまで何してるんだ」社長だった。「部長と渋谷で飲んでて、ついでにビルの建築状況を見てみようと思って来てみたら、なんと、まだ働いていたのか。終電近いから、もう帰りなさい。」

これを契機に、私への社長の態度が一変した。ディンパル、寿司屋へ行こう、飲みに行こうとやけに待遇がいい。給料も月収3倍になった。

私はただトータルに働いただけだが、経営者は驚いていた。この2年間、年末年始を除いて無休で夜遅くまで働く男、普通は5時に帰ってしまい、給料も変わらないのに。

トータルに生きれば、人生は変わっていく。

ニューヨークで働いた時もそうだった。トータルに働けば、ウェーターをしていた時も、客もチップを弾んでくれた。多くの客は渋々チップを払うものであるが、いくら払えばいいんだ、200ドルか、300ドルか、希望する額を払いたい、と申し出られたことが何度もあった。

かくして、またしてもたくさんのお金を稼いだ私は、再び瞑想の旅に旅立つことになる。Oshoは、インドに戻り、プーナ2と言われる現在のOshoコミューンの形が出来上がりつつあった。やっと居所がつかめた。もう続々とサニヤシンが集まり始めているらしい。

私は居ても立ってもいられない気分になっていた。

Oshoと瞑想 バブルの誘惑

再びOshoの所へ旅立つことを決めた私は、仕事をしながら徐々に引っ越しの準備を整えていく。すべての荷物を捨てないといけない。

一番多かったのはOshoの本である。Oshoの本はすべて揃えていた。昔の「存在の詩」「究極の旅」「オレンジブック」などは、バイブルのように大事にしていた宝物だ。


アメリカのラジニーシプーラムで、Oshoは突然毎日の講話をやめて沈黙の集いを開くようになった。すると弟子たちは、話がなくてはつまらないと言って、だんだん少なくなっていった。


後にOshoは、数多くの講話は、沈黙を作り出すためであり、瞑想まで進んでともに沈黙を分かち合うのが最終目標だといった。「存在の詩」に書いてある通りのことが実現されようとしていた。

私は引っ越しに伴い、すべての言葉を捨て、ますます深い沈黙に入ろうと決めた。ひとつ残らずOshoの本は処分した。欲しい人にはあげたが、あとは資源ゴミとなった。

あんなに愛していたOshoの言葉はもうはっきりとは、覚えていない。だが、大事なことは自分の中に残る。道に迷った時には瞑想の中に答えが見つかる。宣教師のようにOshoの言葉を語らないですんだ。語らなくてもOshoの香りは誰かに伝わるだろうと信じた。

スーツ姿の社長とバーのソファーで別れの盃を交わした。まわりには美しい女性が座っていた。私は赤いシルクの上下を着ていたので、まったく場違いの格好だった。

まずは、これまでの仕事の話、今度帰国するのはいつごろか、帰ったら連絡してくれ、仕事を手伝ってほしい。と言われた。

私は、Oshoのことはあまり言わなかったが、おそらく10年くらいは帰らない、ヒマラヤに一生住むかも、と言った。

社長は、今度新潟県に一大ディズニーランドのようなものを作ろう、と夢を語ってくれた。ディンパル、お前のような真面目な奴は初めてだ。お金や女はいくらでも世話をするから、どうか一緒に働いてくれないか。



社長のヴィジョンはスケールが大きかった。その後私の夢の中に具体的ヴィジョンを送ってくれて、なるほどこういうものかと思ったが、私の人生の道とは全然違う。

なんと言われても、このバブル経済の中で沈没するわけにはいかない。社長、お世話になってありがとう。もう二度と会えないかもしれないけど、さようなら。

インドに旅立つ日が近づいていた。

Osho と瞑想 Oshoコミューンへ

Oshoと瞑想  ヒーリング・アーツ

oshoはプーナに帰っていた。(プーナ2と呼ぶ)
oshoは、アメリカ政府によってアメリカを追い出され、世界中を放浪した後、最初に建設したアシュラムがあったプーナに戻ってきていた。

デカン高原の学園都市として知られるプーナは、飛行場のあるボンベイ(今はムンバイになっている)から、タクシーで、でこぼこ道を一晩かからなければいけないところだった。

ボンベイには、日本から飛行機に乗ると、大抵、夜遅く到着するので、一泊すると電車もあったが、夜中も走るタクシーは、夜中にホテルを探す手間を考えると便利だった。

とはいえ、タクシーに、ボラれながら、走っていくのも恐ろしい。一応タクシースタンドはあるが、ちゃんとしたタクシーか、白タクかは最初は区別がつかず、たっぷりとボラれる羽目になる。夜中の朦朧とした頭で、一晩中値段交渉する羽目になることもしばしばだ。

夜中に突然タクシーが止まる。エンストだ。運転手は自分で直しているが、いつ直るのか、見当もつかない。それにここはどこかもわからない。運がよければこんなトラブルに合わずに済むが、人生運次第。トラブルだらけでついに断念してしまう人もいる。こういうところが、何もかもが不確実というインドならではの出来事だ。

プーナには昼ごろ着いた。着いたら早速ホテル探しである。ほとんど寝ていない過酷な条件では、どんな安ホテルも天国だ。当時はコミューン内には宿泊施設がなかったので、自分で月極めのアパートを探した。最初はいろんな手続きで忙しいが、徐々にコミューン内に入れるようになり、瞑想にも参加できるようになる。

出来たばかりのプーナ2は、急ピッチで工事が進んでいた。
アメリカのオレゴンのような広大な敷地ではなかったが、大きなテーマパークほどの敷地に熱帯の緑あふれる森に青いピラミッドの建物が立ち、噴水、プールホール、武道場などある大学の
構内のようである



学部は大まかに

瞑想のコースや心理学やブレスワークのトランスフォーメーション
ミスティックローズ瞑想やボーンアゲインといったセラピーもここでされていた

ボディーワークやヒーリングのヒーリングアーツ
リバラんシングマッサージ、クラニオセイクラル、カラーパンクチャーなどのボディーワークはここでなされていた。

禅武道としている合気道や弓道などのマーシャルアーツ
弓道、太極拳、気功がここでなされていた

チャクラやオーラの透視や研究のミスティズム
プラーナヒーリング、過去生セッション、チャクラリーディングなどがここでなされた

チベット医学とヒーリングセラピーのチベッタンヒーリング

絵画や彫刻などのクリエーティヴ・アーツ、絵や造形芸術がここでされていた

感情、知性、動きを統合するムーヴメント・インテグレーション
グルジェフダンズ、ダンスグループなどがここでなされていた。

など多種多様なセラピーを9つの学部に分けていた。

他に集まりで演奏するミュージックグループがあった。

私はそこの学部を気の向くままに受けていたが、最終的にはほとんどのヒーリングのトレーニングコースを受けていることになった。私の関心は、主にヒーリング・アーツ部門にあったが、
そこでどんなトレーニングが行われていたか、次回に譲ることとしよう。
Oshoコミューン内に入れるようになると、いよいよグループを受けってみようと、いろいろなデモンストレーションに行ってみる。

アメリカのオレゴン、ラジニーシ・プーラムでは、自分の過去のトラウマと向き合うセラピー(インナーチャイルドや過去生ワーク)を主に3年くらい受けていたが、今回は、ヒーリング・アーツ部門に興味を持った。

ヒーリングアーツとは、マッサージ、指圧、整体、クラニオセイクラルなどのボディーワークと、もう少し感情的なものも含む、キネシオロジー、カラー・パンクチャー、オーラソーマなどから成り立っている。いずれも瞑想をもとに、各技術の習得のための長期トレーニングが開催されていた。

何にしようかとウロウロしていると、Oshoの言葉が私の中に入ってきた。
まず肉体から始めなさい

これは、頭であれこれ考えても、霊的成長にはたどり着かない、頭で考えたエネルギーでは、グラウンディング(地に足がつくこと)できない、という意味である。

よし、「リバランシング」からやろう、と決めた。リバランシングとは、筋肉マッサージの「ロルフィング」をもととして、Oshoコミューン内でより繊細に、瞑想的に進化していったマッサージである。

実は、リバランシングは、オレゴン時代から憧れていたトレーニングだった。トレーニング期間が極めて長く、朝から晩までを4ヶ月間というグループだった。


その時は、グループ全体で60人くらい。メインのセラピストは2人。ヘルパーが10人、通訳が10人くらい、残り40人が参加者という具合だった。トレーニングは英語で行われるので、その他の国の人はそれぞれ、通訳を連れてきても良いことになっている。日本人は私と、通訳を頼りにしている女の子、それにその通訳と3人であった。

最初の日はお決まりの自己紹介から始まった。
ところが、・・・その自己紹介には条件があって、なんとショックなことに、みんなの前で全裸になって自分の体のどこをどう思っているか語るというものであった!

Oshoと瞑想 リバランシング その1

いよいよリバランシングのトレーニングの始まりだが、はじめの自己紹介は、自分の体を裸になって人前に晒しながら、名前や国籍、自分の体についてどう思っているか、自分の体のどこが自慢で、どこがいやか、など体についての感想を述べていく。

自己紹介が終わると、60人の観衆から、鋭い意見が述べられる。「あなたの体は縮んでいる」「右が下がって足が細すぎる」「性器に力がない」「男性としては魅力がない」など。

自分の体についての率直な意見が次々と言われて、穴があったら入りたいような気分だった。

参加者はここで肝試しをするのである。裸になることは、慣れてしまえばなんてことはないが、羞恥心が強いと、マッサージを受けるときも余計な緊張をしてしまい、支障をきたすのである。まさに裸と裸の付き合いである。

人からは自分の体がどう見えるのか、また、自分自身の体を否定していないか、自分は体をどう捉えているのか、自分の考えていたことがその時初めて分かることもあるのである。

このとき我々の語ったことはやはり体の雰囲気、いわゆるオーラの状態を見た感想に近かったのではないか。今になっては思うのである。オーラの印象は、意識してみなくても強いもので、ほとんど第1印象を決定する。

この時点では,まだ体の評価が出来る目が養われていない。しかし、徐々に体に対する観察眼が養われて鋭い指摘と的確なマッサージができるようになっていく。

トレーニングは、まず感情を出すことから始まる。いろいろなセラピーを交えながら、踊ったり、ブレスをしたり、オーラソーマを使ったり、人と人が交じり合い、ひとりひとり違った感情を表現するのである。

ある時は、人と人とが顔を合わせ、目を見つめ合って好き!嫌い!などと即答していく、いわゆるエンカウンターセラピーの手法を使った表現をしたあと、体をマッサージしながらどう思ったか相手に伝える、伝えられた方はその言葉を胸に受けて深い感情を味わう。ということもあった。

傷つき、愛して、涙と喜びが交互にやって来る。

Oshoと瞑想  リバランシング その2

リバランシングは、筋肉の深層、筋膜に働きかけるが、これは、もとはといえば、ロルフィングを基礎としている。

ロルフィングは、アメリカのアイダ・ロルフという人が考案したものだが、怪我で動けなくなったピアノ教師の腕を回復させたことから有名になり、マッサージの基本10セッションを確立した。

私もアメリカで受けたことがあったが、とても痛くて耐えられなかった。
となりで受けていたアメフトの選手のようなドイツ人は、大きな唸り声とともにマッサージテーブルを叩き割っていた。が、終わったあと、頭と体はすっきりしていた。

それに比べてりバランシングは、ロルフィングのように無理やり押すのではなく、呼吸を使い、筋肉の深層、筋膜に働きかけてゆく。ロルフィングを母体に20種類以上の手法を取り入れて発展してきた。息を吐くとき、施術者の手がさらに深く入る。すると徐々に体の深部、どんな深いところでも届くのだ。

ロルフィングは教えれば誰でもできると私は思う。が、リバランシングは瞑想のためのセッションでセッションのための瞑想である。一つ一つのタッチを気づきを持って、瞑想しながらなされなければならない。

良いセッションかどうかは、個人の気づきの深さによるのである。でなければ、一般的なクイックマッサージと同じことになる。リバランシングによって瞑想が深まり、体に気づき、感覚を発達させてゆくのである。

Oshoと瞑想 リバランシング その3 トライセッション

トレーニングは、自由な雰囲気で行われ、参加者は、だんだんと技術にも自信をつけていった。いつもワクワクした雰囲気だった。

ある日、私と交換セッションした相手は、20代の綺麗なイタリア娘だった。セッションのあと、彼女は不満そうだった。
「全然つまらなかった。何もワクワクしたことがなく平凡だった。非常に失望した。」と語った。

ベストを尽くしたはずなのに。と少し失望した私は、このことについてシェアしたいので、明日、話題として取り上げてくれるようセラピストに頼んだ。

次の朝、グループが始まると、いつも挨拶がわりにディスコ・ミュージックで踊りながら体をほぐしていくのだが、いつも10曲だったのにその日は3曲しかなく、セラピストは昨日の問題について話し合う機会を設けてくれた。

私は、昨日の反応についてシェアした。「セッションがつまらないと言われたのだが、何か悪いところがあったのだろうか。」

それに対してほかの人からは、「いいや、ディンパルのセッションは良いと思う」とか「自信を持ったらどうだ」とかという好意的な発言が返ってきたが、当のイタリア娘は、「ちっともつまらなかった。ワクワクしなかった」と一歩も譲らなかった。

セラピストがとうとう彼女に向かっていった。
「君はいつも楽しいのかね。何かワクワクして良い事が有り、夢のように素晴らしい結果をもたらすことをいつも期待しているんではないのかね。だとしたら自分のことをよく見て考え直したほうが良い。

生は良い事も悪いこともない。どんなこともただ見ることで中立性を保ちながら至福へと至る。瞑想は至福へと至る道だ。

マッサージは快感だ。気持ちよくうっとりするような感覚、まるでセックスのようにね。そういうマッサージも私は否定しない。だが、瞑想的タッチとなると、そんな感覚はなくなる。タッチした部分が深ければ深いほど、今まで見たくなかったものでも直面せざるを得なくなる。

優れたリバランサーは相手の内面深くに届く。気づきがなく、表面的な幻想を生きていても、中身を見る時、深い絶望と空虚さを感じる。瞑想は内側を見ることである。

何であれ自分のあるがままを引き受けるのは、最低自分の責任である。気づきと瞑想があれば、極端な幸福や不幸はない。それらを超える至福が訪れる。常に気づきを持ちなさい。リバランシングは体の内部がどんどん覚醒してゆく道だ。」

この日以来、皆のセッションはより引き締まってゆき、我々はより至福に満ちた顔に変わっていった。

けれども、くだんのイタリア娘は、途中でリタイアしていった。あまりにもイタリアのコンディションにあわなかったのだろう。和尚のことも受け入れなかった。まだ若かったのだろうか。

Oshoと瞑想 リバランシング - ソアスに触れる

リバランシングトレーニングでは、一通りのマッサージの習得が終わったあと、外部のクライアントに対して10回のセッションを行う。

モニターセッションで私はスコットランドの小柄な金髪の女性を担当することとなった。

毎回おおむね好評で、私は大いに自信をつけていた。10回のセッションもいよいよ終盤となり、最後のセッションで私は番外編、psoas(ソアス)と呼ばれる深層筋に働きかけることを提案した。

ソアスとは、腰椎から腰の下に伸び、大腿骨につながる骨に一番近い深層筋で、普通は、意識されることはなく、また、普段の生活では、十分機能しているとは言えない。

陸上競技のアスリートたちが、研究し、そこが機能すれば、奇跡の好結果を出すことがあると言われる。普通の人においてもそこが機能することで、人生が好転することがあるといわれる秘密の深層筋である。

ただ、機能するにあたっては、まず、その人の持っている深い恐怖が出てくる。その恐怖から解放されて初めて、機能することとなるので、前もっての説明が必要だった。

彼女に説明すると、「それはおもしろい」と請け負ってくれた。

そこで、私は、リラックスさせながら徐々に呼吸に合わせながら深部までほぐしていった。行き止まりまで行っても呼吸に合わせて更に深く行くのである。

ソアスに触れたとき、彼女は青ざめ、泣き出した。終わったあと、彼女は猛烈に怒り出した。

「あなたは私を不快にした。勝手に私の内部に入り、コントロールした。最低だ」と口汚く罵った。「この10セッションは最低だった」と喚き散らした。

スコットランドの誇り高き貴婦人は、自尊心が傷ついたのであろう。恐怖と悲しみを人前に出すことができず、怒りでごまかしたとしか思えなかった。

ただのマッサージでは、このように感情が噴出することはない。私にとって、この感情の噴出は大きなインパクトを受けた。失礼なことは何もやっていない。優しいタッチで深い領域まで筋肉をほぐしている。体は感情を持っている。その感情を解放してやることこそが、リバランシングの目的であり、変容するということなのだ。

力任せに筋肉をほぐしても、感情は出てこない。私は、骨に接している筋肉の付け根に大きなポイントを発見していた。靭帯のある所から1センチくらいのあるポイントを押すと表層すべての筋膜が解放される。
私のセッションはだんだん深くなっていった。

Oshoと瞑想 リバランシング セッションワーカーとして

リバランシング・トレーニングは終盤に近づいていた。
最後の仕上げに3人がかりで1人の人にセッションをするという贅沢な機会にも恵まれた。
トリプルハンドのセッション、受け三昧である。

これを最後にお別れのパーティーが開かれた。参加者はそれぞれ自国に帰るもの、ゴア(インドの西海岸のビーチ)に行ってセッションを受け付けるというもの、皆、リバランシングのセッションをはじめようとしている。

皆がトレーニングを終了して、去っていく中で、私は、トレーニングをしていく途中に独自のポイントを発見していた。


じっくりリバランシングすると、やがて、骨にたどり着く。ゴツゴツした手で力いっぱい押すのではなく肩の力を抜いて、腰を低くして丹田から力を入れるが、指先はソフトでなければならない。

やっているうちに骨に付帯する靭帯、骨から一センチ離れたところがポイントであると気がついていた。そこを触ると周辺のすべての筋肉が解放されるのである。まだまだ研究してみたい。私は研究生として、セッションワーカーになって、コミューンに残ろうと決めた。

カフェで知り合ったスイスのバレリーナがさっそく、セッションを申し込んでくれた。
聞けば、ローザンヌの国立バレー団で長年活躍してきたという。彼女はバレリーナらしく美しいプロポーションをしていたが、脚の付け根が痛いという。私は、トレーニングが終わっての最初のセッションに臨んだ。

Oshoと瞑想 リバランサーとして

Oshoコミューンでリバランサーのセッションワーカーとして働き始めた私は、毎日2、3人セッションを行っていたが、最初のクライアントは、スイスのバレリーナだった。

彼女は2歳からバレーを始め、20代の今はバレー団で舞台を務めているが、足が痛むので各種療法を受けたが良くならなかったと訴える。



スラリと伸びた長い脚、外側の筋肉は鍛え上げられ引き締まっていたが、完全に骨が外側に曲がっていた。腸骨と大腿骨が歩くたびに擦れていたいというのは見ていてもかわいそうなくらいだ。

一ヶ月、毎日セッションをしてあげてやっと痛みは消えたが、私は実は不思議な体験をした。セッション中に私は激しい動揺、何かに感動するようなものが私に襲いかかる。

華やかな舞台が見えた。白いバレリーナが踊る。チャイコフスキーの音楽が心臓を打つ。圧倒的な迫力に襲われる恐怖。身動きできないほど怖いのだが、優雅に踊らなければいけない。完全に捉われの身。あどけない子供が、恐ろしい主人の前で習いたてのバレエを踊る。生贄の儀式に立ち会っているようだった。

実際、私がバレエというものを舞台で見たときも心臓が止まりそうなほどショックを覚えたものだった。これは一体どんな文化的背景があるのだろう。おそらく貴族の遊びとして婦女を鑑賞するために生まれたのだろうか。しかし私は完全なる支配のもと、残酷な性的虐待が行われるような怖さを感じた。

問題は、踊っている本人は何も知らないということだ。私はこの自分でも不確かな感情を言い出せずにいた。優れた芸術に対してむやみにコメントできない。クライアントは自分で自分の無意識が分からなければいけない。

彼女は全く屈託がなく、足が日に日に良くなっていくと喜んでいる。いつもランチは一緒ということで、色々な話をした。足は良くなっている。私は、骨の角度を変えるのは大変だ。おそらくもっとソフトにアプローチすればよいだろうと告げた。この時の経験で、私はがに股や内股の改善の技術を習得することができるようになった。

脚はよくなっているが、体に刻み込まれた感情(わたしは恐怖とみた)を自分で感じるのが良い。このことはカウンセリングで解決できるものではない。もし、無意識の感情が解決されれば良いのだが、2歳の頃から好きでやっていることなので、少しでもネガティヴなことを言われるのは耐えられないだろうし、良いセラピーが思い浮かばないまま、なにか良いアイデアがあれば連絡すると伝えた。(後にライトパンクチャーのトランスミッターをしてあげて、それはすべて解決したのだが)

Oshoは講話を休んだので、恋人たちはゴアへハネムーンのように出発する人も出てきた。
スイスのバレリーナは、私をゴアに誘った。

ゴアといえば、常夏の楽園。以前、一人でに行ったことがある。長いビーチが沢山ある。少しずつレストランとホテルがあり、素朴な自然がある。

タイのプーケットやハワイのようにうるさくなく、それでいてレストランの味は洗練されていて、安く、美味しい。海鮮カレーを食べながら、波の音を聞く。圧巻は、夕日の沈む紅色の空と遠浅の浜に七色に反射する寄せては引く水面の輝き。ハネムーンだったらもっと幸せだろう。

インドは女性ひとりだと色々不安なので、一週間ほどエスコートして欲しいと、そして、毎日マッサージをして欲しいと言われた。そりゃあ行きたいんだけれども、私はコミューンを離れることはできなかった。

私は瞑想するためにここに来たのだ。Oshoコミューンには瞑想という宝がある。どこにいても瞑想はできるが、もうすぐおこなわれるOshoの部屋での瞑想プログラムというものにどうしても参加したい。

彼女は、来年の再会を約束して、スイスに帰っていった。

Oshoと瞑想 ミスティックローズ

もうすぐOshoの部屋での瞑想グループが始まるという情報が流れていた。Oshoが、大理石の敷き詰められた自分の部屋を瞑想グループのために特別に提供してくれたので、そこで3週間のミスティックローズ瞑想のグループが開かれるというものだった。

私は真っ先に申し込んで、そのグループを楽しみにしていた。ミスティックローズ瞑想のグループをするのはこれで3度目だったが、今回は、和尚の部屋でというプレミアムがついていた。

ミスティックローズ瞑想は、一日3時間ずつ行われる。最初の1週間は笑い、次の1週間は泣き、最後の1週間は沈黙という単純なものながら、毎回深い瞑想の境地に仕上がる。

冷たい大理石の部屋は、室温16度に設定してある。冷蔵庫のようにヒヤッとしている。

グループは、セラピストだけ自己紹介して、すぐに笑いの実施、わっはっは、と大声でおなかがよじれるくらい3時間、笑うのである。

最初は何か面白いことを想像して笑うが、ネタが切れても、ただただ笑うのである。笑いが止まったら、部屋の中を駆けずり回ったり、ジャンプしたり、また、口を大きく開けて笑い続ける。

結構全身運動で、疲れる。私はなんと深刻な人だったのだろう。世界はなんとユーモアに満ちているんだろう。

私が小学生の頃、おなかのでた、上半身裸の人が全国を回りながら学校に来た。体育館のステージで1時間くらいおなかをさすりながら大笑いした。私たちもつられて笑った経験がある。

oshoと瞑想 ミスティックローズ その2

oshoと瞑想 ミスティックローズ その2

ミスティックローズ瞑想の第2ステージは、「泣き」のステージである。
「さあ、今日から1週間泣いてください。1日中悲しみに包まれて、夜もひとりきりで泣くいい時間です。さあ泣いて。」
ワーンワーン、シクシク

このステージからサイレンスバッチが配られる。禅の十牛図の絵がついた白くて丸いバッチ。
Oshoコミューン内では、これをつけていると、沈黙中というわけで、誰も話しかけられないことになっている。

挨拶もなし、人と目を合わせることもなく、一日中ひとりきりになれるという環境が待っている。Oshoコミューンでサイレンスバッチをつけていたら、食堂のレジの人も挨拶してくれない。

泣くというのは単純なことなのだが、なかなか泣けない。一生懸命努力してもなかなか泣けない。涙声は出せるが実際に涙は出てこない。難しいものである。

アメリカでは、各種セラピーテクニックもあって、泣けるように誘導されると涙は1リットル以上出たものだが、自分で静かに泣いてもなかなか泣けない。ほとんどの人は、全然泣けなかったといっていた。

私は自分のこと、自分の悲しい生い立ち、今までの人生の悲しかったこと、すべて思い出さなければいけない。それも尽きたら、世界の悲しみに思いを馳せる。世界は自分と感情的につながっている。

その頃 はやっていた、Osho ネオタロットの「変容」(トランスフォーメーション)のカードを思い出した。そのカードにはアティシャという覚者の瞑想が書いてあった。

そのカードにあるOshoの講話を引用してみよう。

さあ、彼は、慈悲心をもつことを始めなさい、と言う。そして、その手法とは、息を吸うとき——注意して聴きなさい、それはもっとも偉大な手法のひとつだ——息を吸うとき、自分は世界のあらゆる人びとの惨めさをすべて吸い込んでいると考えることだ。あらゆるところに存在するあらゆる暗闇、あらゆる否定的なもの、あらゆる地獄、それをあなたは吸い込んでいる。そしてそれを、あなたのハートに吸収させる。

 息を吸い込むとき、世界の——過去、現在、そして未来の——すべての存在のあらゆる惨めさと苦しみを吸い込む。そして息を吐き出すときは、あなたがもっている喜びのすべて、あなたがもっている至福のすべて、あなたがもっている祝福のすべてを吐き出す。息を吐き出す——あなた自身を存在に注ぎ入れる。これが慈悲の手法だ。すべての苦しみを飲み込んで、すべての祝福を注ぎ込む。

 それをやってみると、あなたは驚くだろう。世界のあらゆる苦しみを自分の内側に取り込んだ瞬間、それらはもう苦しみではない。ハートがすぐにそのエネルギーを変容させる。ハートは変容する力だ。惨めさを飲み込むと、それは至福に変容されている……。それからそれを注ぎ出す。

 自分のハートはこのマジックを、この奇蹟を行うことができる、と一度学んだら、あなたはそれを何度も何度もやりたくなるだろう。それを試してごらん。それはもっとも実用的な手法のひとつだ——単純で、しかもすぐに効果が現れる。今日それをやってみるがいい。
                                      
                     THE BOOK OF WISDOM, Vol.1, pp.21-22

ミスティックローズの第2ステージは、すべての悲しみを実感すること。
すると、あるわあるわ。世界はなんと不条理なことか。かわいそうな人がいっぱいいるではないか。中でもインドには、生まれながら乞食として生きる人たち、足もなくて、手もない乞食たちが、道端にいつも座っている。

世の中の人の目を覗き込んだら、そこにある悲しみを拾い同調する。毎日世界中の不条理な悲しみを感じて涙を流す。世界はあまりにも広いので悲しみには限りがない。

最初の1週間でよく笑っておかないと深く泣けない。笑いは胸の下、上腹部で起こり、泣きはもっと深いところ、下腹部に届くからだ。

深い泣きは、体の深いところを呼び起こし、新たなエネルギーを呼び起こす。深い悲しみを感じたら、世界は深い味わいを帯びる。深いというより、それは美しさを帯びている。


悲しみの中には美しさがある。美なのか感動なのか、人生はなんと美しいんだろう。深い味わい。自分の中に深い美しさを感じていた。普通は何をしてもこのような美しさを感じることはできないだろう。

しかしネガティヴな深い体験は、私の体を極限まで弱らせていた。

Oshoと瞑想 ミスティックローズ その3

「泣き」のステージは終盤に向かっていた。だが、私はグループをリードしていたセラピストに対して、不満を感じるようになってきていた。

今回のセラピストは南米系の女性で、私が求める繊細さというものを持ち合わせてないように感じられた。日本人のコンディションなのか、細かい思いやりというものがないように感じられるのである。

一度気になると、次から次へと自分の不満の理由が出てきた。優しい心配りがない、BGMがダサすぎる、もう少し部屋の温度を上げて欲しい、次々と出てくる不満の中で、ついつい過去のセラピストと比べてしまう。

この頃のOshoコミューンは、エサレン研究所からもヨーロッパからも最新のセラピーテクニックを持ったセラピストが続々と集まっていて、世界の最高水準だと思っていたのに。このセラピストは、思いやりのかけらもないように見える。

まず、私にとって深刻な問題は、この部屋の温度だった。室温16度は、当時冷房病だった私にとって、耐えられなく感じた。特に「泣き」のステージは、体を動かすことがないので、ますます体が冷えてしまう。「何とかしてくれ」とセラピストに訴えたが、そのようなクレームは一切受け付けず、「泣け」「泣け」とプッシュするばかりである。

ほかにも体調不良な人が たくさん出てきた。風邪をひいたり、高熱が出たり、私もリウマチのように体がいたんだ。自然の中での低温には耐えられるが、人工的な冷房は、当時、とても苦手であった。

要望を受け付けてくれないセラピストを前に、だんだんやけっぱちな気分になっていた。私は着ているショールを脱いで、薄着になった。死ぬかと思ったが、これに賭けてみようと思った。死ぬときは死ぬ。死に場所が、Oshoの部屋でなら良いではないか。

室温は16度に保たれている。エンライトメントしたマスターは、体が温まるので、いつも16度が適温なのだそうだ。私はマスターの真似はできない。だが、マスターに近づくためにこの部屋を選んだんじゃなかったのか。私はそう考え直したとき、恐怖を全部投げ捨て、もうどうにでもなればいいと思った。強引に何かを捨てた。

Oshoと瞑想  ミスティックローズ 最終回

とうとう最後のステージ「沈黙」まで来た。
運良く冷房病が完治した。私の体は全く変わってしまった。以前は全く受け付けなかった、16度の冷房にも、平気でいられるようになった。あの部屋で、一生治らないような私の体質が変わってしまったことは確かだった。そう言う意味で、ミスティックローズは私を変えたのだった。

沈黙は、動かずじっと息をみて、瞑想する。感情を出し切ったあとは、イライラすることもなく、じっと落ち着いて瞑想が可能になる。最後の沈黙のステージは、非常に深い世界だった。内側も外側も16度の室温も心地よかった。

ところで、このグループに死者がひとり出た。原因は詳しくはわからなかったが、何かに耐えられなくて、グループが終わってすぐに自殺したという。和尚の側近の一人で、和尚は深く悲しんだ。私は、昔から、禅の修行僧たちが、瞑想中に気が狂って自殺することがあるので、必ず途中で死んだ人たちのための祠があるという話を思い出した。

自分の中に入って恐怖を見ていくことは、とてもむつかしいことのようである。自分の恐怖と向き合い、恐怖を捨てるということは、最終的な変容の道なのだが、簡単にできるものではないようだ。ポジティヴに生きていくためには、人生のいろいろなところで恐怖と向き合わなければならないということを多くの人は知らない。

和尚の側近の Death セレブレーション(葬式)は、盛大に行われた。私は参加しながらも、自分のことのように感じていた。私もグループ中は耐えられなくなって死ぬかもと思った。そこで感じた恐怖は並大抵のものではなかった。エンライトメントを求めるということは、なんと厳しい道のりなのだろう。それでも精神的頂点を目指したという意思に敬意を表しよう。きっと生まれ変わったら、もう一度道を歩んでいくんだろう。

魂が登っていったであろう空を見上げた。

チベッタン ヒーリング その1

Oshoコミューン内のグループの受付、ウェルカムセンターで激しい口論が聞こえてきた。ほとんど聞き取れないアメリカ英語。ファックなんとかと何度も怒っている人物は、いったい誰なのだろう。

噂によると彼はニューヨークから来た暴れ者、スワミ ディラージ。チベッタンヒーリングの創始者として知られていた。

彼は、ウェルカムセンターで、相談に来た人たちに、なぜ、チベッタンヒーリングは危険だと、説明しているのか、もっとこちらにも人を紹介して欲しいと要求していた。愛と瞑想の雰囲気のこのウェルカムセンターで怒鳴り散らす姿はインパクトがある。

まるでイエスが教会で商売をしていた商人を叩き出したというシーンを彷彿とさせる。

何かセッションを受けたいが、何がいいのかわからない人は、まずここでカウンセラーの意見を聞く。ところが、ここの人はほとんどトランスフォーメーション部門(セラピー関係)の人なので、勢い自分たちの部門のほうがいいですよと初歩的なセラピーに誘い、終わったらまた、同じ部門に誘い、ほかの部門(チベッタンとかヒーリングアーツとか)に行こうとする人に、それは危険ですよと警告する。

ディラージは、それについて怒っていた。ほかの部門の指導者たちも少なからず怒っていたが、彼は容赦をしなかった。

若い頃、ニューヨークでドラッグと暴力に明け暮れたディラージは、ふとしたことからチベット仏教の僧と出会い、チベット、カギュ派の僧侶、カル・リンポチェから、チベットの秘儀を伝授された。

チベットの秘儀を現代的に体系化していたカル・リンポチェは、この世を去るとき、ディラージに「この秘儀を持ってドラゴンのところへいけ」と指示したという。後にディラージがOshoのビデオを見たとき、これがドラゴンだと直感し、Oshoの弟子となり、チベッタンヒーリングのトレーニングを開始したという。

ディラージが、すごい剣幕で怒ったおかげで、その後、人々は、ほかの部門にも流れるようになった。確かにセラピーは必要だが、一生そういうものをやり続けるのは、一部の人を除いて必要としないし、日本人ならボディーワークから入るのが合っているのかもしれない。

私は危険なことは何もないと思った。そして、その姿に強く惹かれた私は、チベッタンヒーリングのトレーニングを受けてみようと思った。

Oshoと瞑想 チベッタン ヒーリング その2

いよいよディラージのグループが始まった。
チベッタンでは、人の体を24の臓器と神経に分けて考えるそうで、人間の種類も24種類に分け、それぞれの特徴を持っているという。

Oshoは、講話の中で、死の恐怖を克服できる丹田について、日本人のハラの概念について何度も話していた。

その講話によると、日本人は世界で唯一、腹を意識してきた民族である。彼らはなにか大事な時には腹を使う。相撲や合気道などの武道は、腹を鍛えるためにある。何事も腹が座っていなければできないことを日本人だけが知っている。西洋人はそれについては何も知らない。

Oshoがそう言ったものだから、Oshoコミューンにいる西洋人にとって、ハラは、あこがれの対象となっている。ディラージが私を腹の人と呼んだものだから、皆の羨望を集めるようになり、後にディラージの側近たちから風当たりが強くなることになるんだが、その話はともかく、初心者のあいだは安心してグループを楽しんでいた。

毎日非常に活気があり、コミューンの中での一番人気のグループになっていった。

インテンシヴ(グループ)は、24日間行われ、毎日、アイ・リーディング、ムドラー(手印)、チベットの詩、マントラ、交互にヒーリング、24の臓器に合う演劇といったメニューだった。グループは、ピラミッドの地下の部屋でいつも行われた。

24の臓器の演劇を演じなければいけなくなった。衣装もセリフも皆一人で用意して、自分の属する臓器に関する劇を創作し、発表するのだという。さあ大変だ。

24の臓器や神経の特定は、アイ・リーディングという、目の中の茶色い部分、虹彩の傷によって読み取る。目を覗き込んでみると、虹彩の部分に傷がある。まんべんなくたくさんある人や、ほとんどない人、ある場所にだけたくさん傷がある人、いろいろである。

人が肉体的精神的に傷つくような体験をしたとき、その痛みが体の特定の臓器にネガティヴな静電気を生じさせるという。これは同じ痛みを繰り返さない鎧のような働きをするのだが、その反面、人間の成長を束縛する条件づけともなりうる。

チベッタン・ヒーリングでは、脈拍を使い、ネガティヴな静電気を洗い流していく。その結果痛みは快に変わり、条件づけは消えてゆく。

ところで私のタイプなのだが、ディラージは、私を見て、腹の人だといった。彼は人の声を聞きわけ、24のタイプのどれなのかを判断していた。

Oshoと瞑想 チベッタン ヒーリング その3

ハラの人と言われて、今度はグループの中でひとりでハラの演劇をすることとなった。

ここはインドだから思ったとうりの舞台衣装がない。紙で着物を作り、顔を女性に厚化粧してもらった。髪はボサボサでカラフルな洗濯バサミをくっつけた。この衣装は、能と歌舞伎のイメージである(本当は全然違うのだが)。各チャクラのネガティヴな表現のなよなよっとした動きとそれに対するハラの強さというテーマで静かに踊った。




会場は静まり返ったが、東洋の神秘とハラの表現は伝わったろうか。
ハラの人は私だけだった。ピラミッドの地下室でスポットライトを浴びて、チベット暦でいうハラの日のハラの時間、20分くらいの寸劇を演じた。

西洋人にとって、ハラとは、「マッチョな空手の達人」というイメージだったらしく、このスポーツすらしたことがないような弱々しい男のどこにハラのエネルギーがあるのかと不思議がられた。私のハラのイメージはしなやかなエネルギーだ。実際、私には鍛え上げられた筋肉などなかった。

ハラの人と言われてみれば、実際思い当たることがあった。危機になったとき、いつでもハラのエネルギーを使っていた。

例えば、旅行中にリゾート地で静けさを楽しんでいたら、夜中に隣の部屋からテクノミュージックがガンガン流れてきて困ったことがあった。ドラッグパーティーをしているようである。
その日はうるさくて眠れなかったので宿の主人に掛け合うと、いかにも不良っぽいイスラエル人がいて、怖くて文句が言えないという。ほかの部屋にも10組くらいの家族がいたが、皆困っているが怖くて何も言えない。

その晩、とうとう我慢ができなくなった。とうとう薄い壁を叩きながら「ヘロー」と言ってみた。反応はない。そこで、たまりかねてハラのエネルギーを噴出させながら、壁をガンガン叩いて、恐ろしい声で「ヘロー」と叫んだのである。

Oshoと瞑想  チベッタン ヒーリング その4

ハラのエネルギーは、大変効果があったようで、とたんに音楽が止み、静かになった。「sorry」と、弱々しそうな声がした。

翌朝、宿の主人と泊り客が集まってきて、まぶしそうに私を見る。隣のイスラエル人は、次の朝、こそこそと去っていった。「どうやって追い出したの?」「ハローといっただけ」

毎晩のドラッグ・パーティーに誰も怖くて文句が言えなかったが、私のハラの声で、相手は退散した。ハラのエネルギーは西洋人は、使う習慣がないので、こちらは最強である。(日本では使えないようだが。)

ハラとは、下丹田のことである。セッションワーカーは、グラウンディングのため、鍛えなければならず、他の丹田と区別するため、ハラと言っている。鍛え方は様々だが、皆武道のエクササイズのようなもので、西洋のスポーツとは一味違う。

ここにあるエネルギーは、Oshoの言うように実存的生命エネルギーで、鍛えればどんなこんなんも乗り越えられ、とりわけ、セッションワーカーには必須と言われている。

チベッタンでは、そのハラのポイント、へそから2指位下のところに4本指を突き立て深く差し込む。するとクライアントは、自分のハラのエネルギーの欠乏状態を自覚し、クライアントは死の恐怖に直面するらしい。セッションワーカーである私は、ハラのエネルギーを止めどもなく使うこととなるので、私の鍛錬にもなる。



西洋人にはほとんどの人(ある人は未だ見たことがない)にハラのエネルギーはない。おかげでセッションをすると、私のハラエネルギーは、枯渇し、とても疲れた。そこで、そのエネルギーを取り戻すためのエクササイズが必要となった。

ディラージは、24の各臓器に対応する音楽も開発していて、音楽をかけながらその臓器の日のその時間にヒーリングすると、それぞれの感情が出るわ出るわ。自分のネガティヴな怒りを相手に叩きつける人が続出していた。

人に対して失礼に振舞っても、やっぱり形に出ると、自分の中の負の部分を見ざるを得ねくなる。加えて脈拍を操作されると、電流が走り、体が原始的快感を伴うのが大きな魅力である。

私はその魅力に取り付かれ、3年間どっぷりとチベッタンの世界にはまり込み、やがてハラのセッションワーカーとして参加するようになった。

チベッタン ヒーリング 最終回

3年もチベッタンヒーリングに関わっていると、次第にグループワーカー(グループをリードするセラピストの仲間)となり、ハラの日には、いつもセッションに出かけていくようになった。



あるハラの日、参加者に対してハラのセッションを行っていると、突然グループのリーダーたち、セラピストの一団に呼び出された。「ハラのセッションは危険を伴うので、中止。クライアントは死の恐怖が出てくるので、まだまだやってはいけないというルールになった。」という。

恐怖が出るから危険だと?ここはマーケットプレイスではない。瞑想者のコミューンだ。恐怖が出てくれば、それを見て、解消していくのが瞑想者ではないか!自分たちにできないものだから勝手にルールを変更するな!

私は構わずセッションをやり続けた。すると、ディラージの右腕と言われたテキサスの大男とドイツの大きな女性ほか数人のセラピストが「セッションは許可しない!」と束になって、私のセッションを無理やりやめさせようと私を突き飛ばした。「なんだこのやろう」と喧嘩をしようと思ったが、体力と人数は、とても一人の手に負えるものではなかった。

私は彼らに「死が怖いのか!いくじなし!」と叫んでピラミッドを出て行った。こんな形で私はチベッタンと決別した。

ディラージはどこにいるんだろう。その頃ディラージは、新しいセッションの実験をピラミッドの上階で夢中になっていたらしい。のちに発表されたセッションは、「虫を取る」というものだった。人体に寄生している見えない虫のようなものを取るため、口の中に手を入れ、鼻の中に振動を伝えるという。10回くらいのセッションが必要で、それでも取れない場合もあり、困難を極めていた。

虫は、人体に寄生して、精神をコントロールしているという。セッションワーカーは、霊的に虫を体内に取り入れてしまう。
半年もすると卵を産み、増えていくとやがて病気になったり、腫瘍ができたりする。

この話は神道のミスティシズムの中にも似たような話がある。
これについては、後にライトパンクチャーで容易に取れることがわかったのだが、チベッタンヒーリングでは、10回以上のセッションが必要だった。

その数年後、ディラージは、死んだという噂を聞いた。セラピストたちも何人か早死した。チベッタン・ヒーリングは、ディラージのたゆみない研究と実験にかかっていたので、その死後、Oshoコミューンで、チベッタンの参加者はだんだん少なくなっていった。勇敢なセッションリーダーは、ドン・キホーテのようにはかなく散っていった。



チベッタンに決別したあと、私は、カリフォルニアの日本人鍼灸師や古武道骨法の実践者ら
と独自に勉強会を開いて、チベッタンとの違いを突き合わせて、夜遅くまで情報交換をした。やはり、ヒーリングの秘密は東洋にあるとの確信を得ていったのである。

Oshoと瞑想 プラーナヒーリング

3年間もやってきたチベッタンヒーリングをやめて、しばらくは放心状態だった。

浦島太郎になった気分で、人々が違って見える。コミューン内の人が変わったのだろうか。いや、自分の見る目が変わってしまったのだった。
急に暇になって、世間?とのズレを感じるとともに、人に対する見方が以前の私とは変わってしまったのに気がつく。
人の目の輝きが人物判断の主要なものになっていったのである。
ランチタイムにピラミッドの脇を歩いている人の中に、輝くオーラを放ち、目がキラキラ輝いている人達がいる。私の目はダークネス・メディテーションを続けているのでどんよりとしているが、その人たちはそれとは反対のワークをしているんだろうか。
私は好奇心を抑えられなくなり、その人たちの後をついていった。真っ暗な中に黒い布を貼り付け、ロウソクの明かりが灯る。スクール オブ ミスティシズムだ。彼らはそこのプラーナヒーリングの部屋に吸い込まれるように入っていった。
私はウエルカムセンターに戻り、プラーナヒーリングのセッションを申し込んだ。
スクールオブミスティシズムは、内部を黒で統一し、照明もロウソク一本とかに暗めに落とし、ワークも夜のセッションも多く取り入れ、不気味なところで近寄りがたいイメージだが、黒魔術をつかっているわけでもない。
柔らかいクラシック音楽を聞こえないほど小さい音量に下げている。座って目を閉じ、ハートのレベルに落ち着くことからなんでも始まる。
天にまします神に祈り、平安を感じ、安らかな深いハートのレベルから直感を受け取り、人間のオーラ、チャクラ、過去生や透視、チャネリングなどサイキック能力を使うことに敬意を払う。

非常に霊能力の高いサイキック集団と思われそうだが、Oshoコミューンのミスティシズムは
かなり控えめだ。
ここでは霊能力というものはさほど高い地位になく、そのへんの牛の糞くらいの価値しかない。
瞑想者はサイキック能力を使う際に発生する、「私には特別な力がある」という意識、エゴイズムによって自らの霊的階級を落としめている。
故にOshoコミューンではサイキックワークはそれほど評価されない。
それよりその人の実存の香り、愛、至福、法悦、沈黙、慈愛、瞑想の質の高さ、これらが最も尊敬されることである。
しかし、ミスティシズムの透視セッションなどは、他の部門より高い値段設定になっているのは世間と同じだ。
プラーナヒーリングという耳慣れないセッションを受ける日がついにやってきた。

Oshoと瞑想 プラーナヒーリング その2

いよいよプラーナヒーリングという耳慣れないセッションを受ける日が来た。
現れたのはイタリアの女性。鼻が高いので魔女のようだが、西洋人だから普通の顔なんだろ
う。

マントを持って現れたので、どうするのかきいたら、このマントであなたのオーラを覆うのだという。どうするのか見たかったが、床に寝た私の目に目隠しの布を乗せられた。
セッションワーカーのイタリア人は、奇声を発した。シュシュシューッ、シャーシャー、ピーピーピー、シュルルrrrプルプルrrrrr舌を打ったり震わせたりしながら、小刻みに指を鳴らしながら風を送り込んでいる。鶏が頭の上で締め上げられているような音だ。
口笛のように強く吹き付けたり、おなかからとのどから声を出して、何か頑張っている時の声とともに一生懸命オーラレベルで仕事をしているみたいだ。
上半身から下半身へと移って行って、やっと終わった。
ゆっくり立ち上がると、目の前がすっきりしていた。不思議なさわやかさ。私はオーラがクリーニングされたようなすがすがしさを感じた。
この感じは…思い出した。八幡平のある温泉に行った時のようだった。ラジウムで有名な玉川温泉の近くに御所掛け温泉という泥のような湯があるが、そこに行ったときと同じ感じだった。玉川温泉と比べて知名度はないのだが、そこから出てくる人のオーラがピカピカに輝いていたのでついつい入ってみたくなったのだった。
試しに入ってみたら、オーラが洗われるようなさわやかさ。個人的には、オーラのきれいになる温泉としてとらえていた。そして、九十九里海岸で泳いだようなオーラの洗浄が肉体に及ぼす衝撃的快感がセッションの後々まで残った。
そのあとも私は、いろいろなセラピストからプラーナヒーリングを受けて楽しんでいたが、ある日本人女性は、イタリア人男性ヒーラーにつかまって、5回の連続セッションを受けていた。腰の痛みを治そうとしたが、ドンドン痛くなって、止めようとしてももう少しやらないと治らないと言われ、半信半疑になりながらもやめられなくなっていた。
やっぱりオーラの修正をするのは時間がかかるのだろう。治る前にオーラの病が体に現れて厳しいリアクションが長く続くのかもしれない。そういうこともあるのかと思った。
スクールオブミスティシズムは、あまり活発な活動はなく、有志の人たちが静かにワークをしている。年に2度しかトレーニングもなく、夜自宅で学習が多い。
そのころ出たバーバラ・アン・ブレナンの本を読むよう言われたが、英語の上に分厚く、ちっともはかどらなかった。私はその本をもって旅に出ることにした。
ところが私は自らの旅券に問題を抱えていた。5年以上の不法滞在。ムンバイに行って入国管理局で話を付けなければならなかったのである。

Oshoと瞑想 プラーナヒーリング その後

プラーナヒーリングは、テレパシー、チャネリング、サイキックオーラ手術、シャーマニックオーラエネルギー 、の扱い方などを実践し、ダイナミックなオーラヒーリングだった。

オフシーズンには、連絡はテレパシーを使うように指示された。
私はプラーナヒーラーとしても働いたが、本当のヒーラーとしての仕事は夜、遠隔で行っていた。
そうこうするうちに私は旅の身支度を始めた。
ムンバイに行って、人と会い、話をつけるのも人脈、じゃの道は蛇の道、長い旅の中でのコネだろう。
ムンバイの係官は5年間の不法滞在を解決して、一時出国を勧めた。プーナから2日くらい汽車に乗り、Oshoの生地ジャバルプールへ、そのあとネパールへ出国、トレッキングをして、3ヶ月くらいだったろうか、この間のことは長くなるので省略させていただく。

再びプーナのOshoコミューンに帰ってくると、プラーナヒーリング、ミーラのアートグループ、クラニオ・セイクラルのトレーニングなど、様々なヒーリングを楽しんでいたが、その頃ヒーリングアーツでは、この前来訪したドイツのセラピスト、ピーター・マンデルの話で持ちきりだった。
なんでも、Oshoが、カラーでヒーリングの仕事をしている人がいるから連れてくるように。と言ったらしく、ドイツのサニヤシンが、ピータ・マンデルを見つけてコンタクトしたらしい。
その頃は、まだ3日間のワークショップがハップンしたばかりで、もうすぐトレーニングコースも始まるらしい、個人セッションを受けられるのは、インナーサークル(Oshoの側近の人たち)のみ、とか、いろいろな噂で皆、興奮気味だった。

Oshoとピーター・マンデル

色でセラピーの仕事をしている人がいる。
その人を探してきなさい というOshoの霊感に答えて、ドイツのサニヤシンが動いた。
その時のOshoの言葉が残っている。
ピータ-・マンデルをここに来るように伝えなさい。我々は大いに歓迎する。
しかもここには喜んで彼の研究対象になる何千の人々がいる。

OSHO

その後はピーターマンデルから手ほどきを受けた数人のセラピストによる、
実験的なグループ、トレーニング、個人セッションと展開するのだが、
この流れは、Oshoとピーターマンデルとドイツのサニヤシンたちが計画した特別な機会だった。
Oshoとピーターマンデルは、どのような合意があったのだろう。
Oshoは、究極のセラピストだ。
カラーパンクチャーが瞑想のために非常に効果的ならば、コミューンの人の変容に効率的に違いないと考えていた。
一方でピーターマンデルは、日頃は、がん患者や体の病気に対して、心理的原因を取り除くカラーパンクチャーを施していたが、
彼自身は、精神的向上のためのセラピーを開発していた。
だが、体だけの問題を訴える患者には使えない。
Oshoコミューンの人たちならば、日々セラピーを受け、瞑想している人たちである。
というわけで、精神的向上のためのセラピー、 トランスミッターリレーやプリネータルセラピーは、
Oshoコミューンで実験され、かつ進化していったのである。


特にトランスミッターリレーに関しては、
その進展にサリタというサイキックリーダーの存在なしには、完成していかなかっただろうと私は今でもそう思っている。
初期のグループは、混沌を極めた。
セッションが始まると、最初から極めてネガティヴな感情が噴出し、
それはカタルシスのためのダイナミック瞑想が必要になるくらい、強烈なものだ。
しかし、10日後にはその問題がすっかり消えてなくなっていることに気づく。
遅い人でも半年すれば、いつの間にか解消している。
この不思議な問題の消え方は、体験してみないとわからない。
カラーパンクチャーのセラピーは、カウンセリングや、従来どうりのセラピーの常識を覆すものだった。
そうであるがゆえにネガティヴなものが出るときにどう対処するべきか、いろいろの実験がなされていた。
こんなふうにほかの部門のセラピストやサイキックな判断ができる人に支えられて、
少しずつ進化していったのである。

2019.10.30 Oshoと瞑想 Osho time記事カラーパンクチャー

カラーパンクチャーの話題は、当時Oshoコミューン中で、噂になり、
この全く新しいヒーリングをOshoをはじめ、コミューン全体が受け入れた。
既に大物セラピストは、
個人セッション、とりわけトランスミッターリレーといったシリーズセッションを受けていた。

3日間のワークショップを開いたピーターマンデルの記事をOsho timesは、次のように伝えていた。

ここに一人の人物が壺一杯の金を抱えて立っている。
人物の名をピーター・マンデル、壺の中の金をカラーパンクチャーという。
Oshoコミューンの真っただ中で、其の金の塊をいっぱいに掴んで、辺り一面に撒きながら
新しい時代の到来を告げる。
まるで集中砲撃を喰らった時の震撼というべきか、
マンデルは、たった3日間のワークショップで120人の参加者のハートをものの見事に射抜いてしまった。
遠い星からの訪問を受けたような、海底に没して忘れ去られたアトランティスか、
レムリアの古代文明から最後の生存者が地上に姿を現したような衝撃というべきか…
これは誇張でも何でもない。
今回のワークショップに参加した大半のヒーラーが受けた印象をそのまま表現したものだ。
ヒーラーたちはまるで一種のデジャヴのように。
内側から自然と湧いてくる認知と賛同を感じたのである。
ちょっと想像をしていただきたい。ただ単に光だけ。
しかもレーザー光線のようなものではなくただの懐中電灯が発する光だけをベースにした治療法。
小さな懐中電灯で皮膚上に赤、青、黄色、緑、オレンジ、紫のいずれかの色の光線を照らすことのみによって
肉体、マインド、魂に同時に情報を伝えるという治療法。

肉体という物質の階層から秘境的な光よりなる体の最も深遠な放射物までとらえた、先の彼方には?

大いなる勇気をもって魂の無限に続く階段を登り始めたマンデルと
その眼前に現れた高次元の光の存在、光明を得た、神秘家であり、
マスターであるOsho、この二人の眩いばかりのプーナにおける「真昼の決闘」、ならぬ「真昼の邂逅」はいま、
幕を開けたばかりである。

このカラーパンクチャーは、まったく正しい。

色は身体に影響を与える。
それを明らかにしたのは偉大な功績だ。
ピーターマンデルは、本当に素晴らしい仕事をした。
この仕事によって、あなた方は実存ではなくマインドを、感情を、そして身体を変えることができる。
この方法で、もし、人が浄化されれば、それは良いことだ。
そうすれば、瞑想はとても容易になる。
これらの問題が瞑想を妨げているからだ。

OSHO

私は個人セッションを受け、1週間のグループやシリーズセッションを受け、
トランスミッターのトレーニングのグループに入ろうとしていた。

Oshoと瞑想 和尚の死  その1

夜は毎日、ホワイトローブ・ブラザーフッドといって、白いローブに皆が着替えての和尚の講話があった。和尚はその頃、体のあちこちが痛くなっていたにもかかわらず、瞑想だけには毎日姿を現して、共に瞑想をしていた。

ところが和尚は、その夜の講話や瞑想に姿を現さなかった。急激に体調が悪くなったらしい。
しばらく姿を現さなかったが、突然、瞑想に現れるといわれた。姿を現した和尚は、急激に体が衰えたように見えた。彼はもう語らない。話すことはもうない。10分間ホワイトローブを着た我々と一緒に座るだけ。
静かなシタールとタブラと笛のインド音楽を演奏させ、指先をわずかに動かし、演奏を止めさせ、沈黙に入る。和尚自ら、音楽を指示し、しばらく演奏させたあと、またストップ。
沈黙の時は、何千のホワイトローブの人たちは、一切音を出してはいけない。咳払いもくしゃみも針一本落とさない静けさが要求された。最初は緊張したが、至福の一時だった。和尚は我々の沈黙を指揮したのだった。
だが、和尚は、体の激痛で、指を動かすことも困難で、ただ合掌して手を合わせて舞台の上を静かに歩くだけだった。
次の日和尚は、自宅で横になりながら、ブッダホールでの我々と同じ時間、沈黙をしようという。もうみんなの前に姿を現すこともかなわないくらい、和尚の体は、悪くなっていた。
和尚がいなくても和尚と共に座った沈黙の質があった。和尚が指揮するビデオを見ながら、音楽隊が演奏し、沈黙を作った。和尚がいなくても、我々は和尚と共に座った深い沈黙の質があった。
和尚はこの最後の沈黙について、「沈黙はかつてないくらい深まっている。もうほとんど触れられるくらいだ」と語ったという。最後の2日間の和尚なしでの沈黙は、あれはただの実験だったのだろうか。
和尚の体は苦しい。いつの日か我々のもとを去る。でも今日ではないだろう。和尚が自宅にくつろぐことができて、我々は自分たちで沈黙を作り出せる。マスターを煩わせることなく瞑想ができて、我々は少し心が軽くなった。
マスターが手とり足取り指導してくれなくても、ここまでやれた。その後…和尚は突然いなくなった。和尚が肉体を離れる前に残してくれた最後の贈り物は、沈黙だった。
この沈黙は私たちが作り上げたものであり、後に和尚がいなくても、仮に新参者が参加しようと、永遠に質を落とすことなく続いていくことになる。

Oshoと瞑想 和尚の死     その2

和尚が去ってしまったというニュースはコミューンを震撼した。

全員ホールに集まって最後まで見とった主治医のアムリットが経過を説明した。
何を言っていつのかはっきりわからなかったが、どうやら最後まで意識がしっかりしていて、後のことを指示したようだ。
「すぐブッダホールでお祝いを10分間おこない、川で火葬にするように」と。
和尚の死んだ夕方5時からもう3時間経っているが、アムリットは声を詰まらせ、最後の和尚の姿を伝えるべく、マイクで話していた。
途中言葉に詰まったとき、頭上の木からアホウドリのような孔雀の鳴き声がした。それで、みんな一斉に笑った。
涙が流れるまま音楽隊とともに踊った。川岸まで踊りながら行列を作る。

和尚の体を薪の上に乗せ、火がくべられると笑い声が泣き声になり、踊りながら祈った。
和尚とのお別れ。コミューン内で死んだものは歌って踊ってお祝いされながら焼かれる。
「生も死も怖れるものではなく、祝うものだ。あなたは死なない。永遠に移り変わるだけだ。」
と和尚は言っていた。
だが和尚との別れは辛い。焼かれる前に和尚を目の中に焼き付けておこうと見ていたが、目が霞んで見えない。

子供じみているようだが、私は和尚の突然の死をどうしても受け入れることができなくて、遺灰の残り灰を手に拾い泣きじゃくっていた

和尚の生命を伸ばす手助けは何もできなかった。いつも和尚の健康を祈って愛を送っていたが、和尚の方が我々に多くのものを与えてくれた。瞑想と愛を学ばせてくれた。
今、和尚の肉体がないのが寂しい気持ちだ。
和尚は、
「私の肉体に執着してはいけない。肉体に執着すれば、あなたは次の生もまた、肉体として生まれ変わる。」
とも言っていた。
和尚はどこに行ったのだろう。
「私はどこにも行かない。肉体の束縛から離れて、ますます私の存在は大きくなる。あなたが私を探したら、私はどこにでもいる。あなたの中に、その雲の中に、その木の中に、海に、山に、どこにでも私を見つけることができるだろう。肉体は滅びるが、愛は永遠に残る。あなたと私は愛でつながっている。」
和尚の遺灰は、一部収集されて、皆で行進しながら、私がかつてミスティック・ローズ瞑想をしたサマディールームに安置された。
私は、川の脇の火葬場で2日間、残り灰を握り締め、泣きながら呆然としていた。和尚の灰とともに、乞食になってもいいからここで生活しようと思った。
だが和尚の言葉を思い出し、思い直して、和尚の体の残り灰をガラス瓶に入れて、大切な宝として持ち帰った。

Oshoと瞑想 和尚の死 その3

OSHO Never Born Never Died Only Visited this  Planet Earth between Dec 11 1931-Jan 19 1990
和尚の死は、世界の知識人を動かし、各界の人々が慰問に訪れ、コミューンは活況を呈した。
和尚が肉体を離れたら、コミューンの雰囲気は、軽くなったように感じた。人々や空間が輝いて見えた。
肉体はいつか滅びるが、愛は永遠に残る。と和尚は言った。その通りだった。目を閉じたら和尚を感じるのは容易なことだった。道の脇の石にも草にも木にも、コミューン内の空気の中にも、あらゆるところに和尚の愛がある。
コミューンは美しい場所になり、世界中から人が集まった。以前よりももっと多く和尚を感じられるようになっていった。
和尚のワークは永遠に続く。
和尚は生前各地を渡り歩いて、毎日講話を行なったが、その本は数千冊に上る。
人類の過去を、あらゆる次元から、かつて誰ひとり行わなかった方法で解説、分析しそして真実に至るすべての道しるべに「瞑想」と書かれていることを示した。
過去の全てと、それがどのように私たちの現在を破壊しているのかを語った。ほかの誰もこの仕事を再び行う必要はない。しかも和尚のあと舞台に立つのは至難の技だろう。
「私の後、誰であれ、マスターになろうというものは、私が通過したすべてを通過しなければならない。それは非常に困難だ。」
和尚は、生前、世界中から何万人もの弟子を集め、アメリカのオレゴンにラジニーシ・プーラムというコミューンを作ったが、やがてアメリカに迫害され、放射能の毒を盛られ、世界中の空港で入国拒否に会いながら放浪し、インドの和尚コミューンにて、早折した。
和尚は自分のことを宗教に分類されるのを好まなかった。
過去に、どのようにして真実の宗教性が、死んだ「宗教」を形成していったか。なぜそうなったのか、それについて、何度和尚は語ったことか数知れない。
教祖や救世主の類が、実は様々な種類の牢獄だったと警告してきた。
和尚が死んだとき、後継者は残さなかった。
宗教になるのを恐れて、日本の寺のどこにでもあるような抽象的な言葉Oshoに変えた。
瞑想の伝統を保つために後継者を残すという方法ではなく、全く新しいビジョンを示した。
天国の聖者たちは干からびた骨だ。何かが足りない。ブッダに必要なのは、笑い、喜び、楽しみといった「ゾルバ」の質だ。
※ゾルバとは、ギリシャの有名な小説で、映画化もされた「その男、ゾルバ」の主人公で、地上の楽しみを思う存分楽しんだ男として、和尚の講話によく引き合いに出される人物のこと。講話の中では、地上的な楽しみを享受することを単にゾルバと言ったりしていて、和尚の講話ののキーワードの一つとなっている
過去のマスター達は単にブッダを創出する為だけに存在したとすれば、和尚は全く違うものを目指していた。
彼は、ゾルバとブッダを一人の人間に持った人をしかも大量に用意しようとしていた。
まず、ゾルバを生きなければいけない事を常に強調していた。
蓮の花は泥の中から生まれる。
宗教的重荷を背負わされたこの世の中で、ブッダよりゾルバを作り出す方がより難しい。
しずかにすわり、TM瞑想でもすれば、どんな人でもやがて光明に到達する。それは、悟り、エンライトメントだが、それは終点ではない。ゾルバ、ザ、ブッダになり、涅槃(ニルヴァーナ)に至るのが道だと和尚は話していた。
ゾルバになること、それは非常に稀有なことだ。
赤い服を着て、ゾルバになったサニヤシンは、世界中から迫害された経験を持つ鍛えたれたゾルバだ。ゾルバがブッダになるとき、歓喜はより深くなる。
ゾルバが光明を得たら、スピリチュアルリーダーとはならない。
彼らはただ木を切り、水を汲む。宗教性があるだけだ。
和尚のワークは、何万人のゾルバを作ったことだ。
それは新しい夜明けだと和尚は言っていた。

Oshoとカラーパンクチャー…奇跡的ヒーリング その1

1990年、和尚を肉体を去ったあとのコミューンは、ますます美しさが増しているように思われた。
和尚の臨在が、確かにあるのだという雰囲気だった。

ところで、カラーパンクチャーのトレーニングやワークショップが始まろうとしていた。
個人セッションも全ての人になされるようになった。
受けた人々の感想は様々だった。本当に2手に分かれた。

とても素晴らしかった。いろんなことがクリアーになっていく。という人がいる一方で、何も感じなかった。
マッサージの方が良い、という人、そんなもので存在が変わるんだったら何十年も瞑想をしたことは、なんだったのか、
絶対に信じられないという人。

私は、この頃、プラーナヒーリングのトレーニングをしたおかげで、
既にその人のオーラが、明るいか、暗いか、低いか高いか位のことは、見えるようになっていた。

あるとき、カラーパンクチャーのデモストレーションがあるというので見に行ってみた。
その場で、受けた人すべてのオーラがたちどころに変わっているのを目撃したのである。
これはすごい、でも本人は何も感じてないようだ。よかった、という人と、何も感じないというひと。
しかし、受けていた人のオーラは、全員高く伸びて輝いていた。

個人セッションを受けてみたら、すごくすっきりした感じ。
しかし、単にすっきりしたというわけではなく、もっと奥深いものがあった。
言葉で言いあらわすのは難しい。

この時、カラーパンクチャー部門をリードしていたのは、サリタというアメリカ人の女性だった。
金髪がふわーと長い。
小柄で繊細な感じ。サイキッカーとして知られていた。

アメリカでは、すでにその人の過去や未来を見抜くことのできるサイキックワークを仕事にしていて、
姉とともに、コミューンでも個人セッションを行っていた。
ところで、そのサリタに個人セッションを受けているという日本人の女性がいた。
詳しく話を聞いてみたい。
その女性は、今受けているトランスミッターのシリーズについて、長々と語った。
カラーパンクチャーの個人セッションには、過去世を含む人生をクリアーにするトランスミッター・リレーというプロセスがあり、
それを受けているところだという。

セッションに行くと、サリタからは、
「あなたは、過去世で、原爆にあったのです。とても悲惨なことがありましたが、それを、クリアーにするためにここにきました。
よくここまでたどり着きましたね。」といわれたらしい。

その女性は、毎日、髪を解くと、髪が抜けていることに異常な恐怖を覚えていて、
毎朝髪をセットするのが辛いのだと打ち明けてくれた。
話を聞いて、私も受けてみたいと思ったのだが、
サリタにそのセッションを受けるには、細部にわたって、英語がペラペラでないといけない。

特に医学用語には、私は全然自信がなかった。英語のハードルはかなり高そうだった。
もちろん、サリタは日本人には、特にゆっくり話してはくれるのだが…。
トランスミッターの個人セッションは、希望者が多く、予約でいっぱいで入れなかった。
に加えて、英語に自信がないと後回しにされること必至である。

しかし、朗報が舞い込んできた。
トランスミッターのトレーニングの中でモデルとして受けることができるということなのである。
もちろん通訳をつけても良いし、
人数も大量(といっても20人くらいだが)に受け付けるという。

だが、そこにも入れなかったが、結局、そのトレーニングを受けた日本人から受けることができた。
これなら日本語でOKというわけであった。
とにかく、その時期は、和尚コミューンはカラーパンクチャーで盛り上がっていた。
そして、サリタの神秘的な香りが付け加わり、ピーターマンデルが強調する科学的な分析よりも、
人生をクリアーにする瞑想ツールとして発展していったのであった。

Oshoとカラーパンクチャー…奇跡的ヒーリング その2

カラーパンクチャーのグループは、主にサリタがリードしていた。
サリタとは、以前このブログに書いた、サイキッカーの女性である。
彼女がリードするうえでかなりこだわったことがある。
それは、「無条件の愛」というものである。

トレーニングのグループでは、参加者全員にローズクオーツをプレゼントされた。
ローズクオーツのエネルギーは、Unconditional LOVE,つまり、無条件の愛である。とサリタは、いった。


グループルームは、ピンクの布が張られ、ピンクの枕カバー、ピンクのクッション。
全て、無条件の愛を象徴しているという。

この無条件の愛という概念、実は、ニューエイジではお馴染みな言葉なのだが、
本当の意味でのこの概念を理解するのは、なかなかむつかしいと思う。特に日本人の場合。
キリスト教会では、この概念が語られるようだが、
神への愛とかと混同されることも多く、体験なしにはなかなか理解できない。

いろんな聖人が愛について語るが、言葉だけでは理解できないものである。
多分日本の文化の中には、存在しない概念なのではないかと思う。
多分、語ることは、ナンセンスなのだろう。
しいて言えば、「あの人は、い~い人だ」とか、「いっしょにいて、おちつく」とかいう言葉が近いのではないだろうか。
だが、近いが違う。
Oshoは、無条件の愛は、その人その人の内側で実現するといった。
その愛は、方向性を持たない。その愛の中でくつろぐということができると語った。
そして、不思議なことに愛のエネルギーは、使えば使うほど増えていくものだと語っていた。

きっとサリタはその愛を感じながら、セラピーを行うことを理想としていたに違いない。
グループの中では、ローズクオーツ瞑想というものを行ってから、ワークを始めた。
ローズクオーツ瞑想は、径5センチくらいのローズクオーツを 頭の右後ろ、右前、左後ろ、左前、頭頂、額と、各1分当ててもらう。
二人組んで交互に。そして、10分間沈黙するという。
静かな、儀式のような不思議な朝のセレモニーであるが、なぜ、毎日行うのか、その時はわからなかった。
あるとき、私は、何かが定着していくのを感じた。

サリタは、いつもバラ色の笑みを絶やさず、決して怒ったり、人を否定しない人だった。
Unconditional LOVE そのものの人で、決して表面的につくろっていたわけではなかった。
サリタのセッションをコミューンのBooking office(予約センター)で依頼すると当分キャンセル待ちであるが、
直接話すと、びっしり書き込んだスケジュール手帳を取り出し、
朝早く起きれるなら6時半にコミューンに来るようにという。

手帳を覗き込んで、びっくり。
早朝から夕方まで、食事の時間もろくに取れないほどびっしり予定が詰まっている。
その上、グループワークのセラピストとして、指導している。
サリタは、愛のエネルギーを放射しながらエネルギッシュに働いているのだが、色々な人が自己中心的陰謀を働いている。

いろんな人が、自分のビジネスにサリタを利用できないか、サリタと関わって、自分も権威を獲得できないか、
傍から見ると甘い汁に群がるダニのようにも見えた。
あるとき、私はサリタに訪ねた。

なぜ、人々の悪いところも見ようともしないのですか。
人のネガティヴなことは、目に入らないのですか。
すると、サリタは、
「ディンパル、一日24時間醒めていなければいけないのよ。」と優しく微笑んだ。
私は、衝撃を受けた。
まず、彼女の途方もない愛のエネルギーがあって、そして、コメントがある。
普通の和尚セラピストは、このようなとき、ただ和尚の言葉を引用してしゃべるだけである。
語った本人の存在は見えない。

サリタの愛の秘密は、覚醒であった。
愛と覚醒のエネルギーに触れるのは和尚コミューンの中でもめったにあることではなかった。
彼女の深い眼の中にネイティブインディアンのスピリットを感じた。
そういえば、白人にしては背が低く、どことなく東洋人にも似ているようだ。
インディアンの血が少し流れているのだろうか。
今となっては、彼女は無条件の愛を実現しようとしていたことがわかる。
だが、はじめは、そのことを理解できなかった。
そして理解していた人も少なかったと思う。

グルジェフもこう言った。
覚醒は愛ではない。だが、愛に至る道だ。
瞑想と愛は、友達だ。
しかし、愛の反対は、恐怖である。
つまり、さまざまな恐怖を愛に変えてゆくことこそ、真の魂の改革なのである。

Oshoとカラーパンクチャー…奇跡的ヒーリング その3

カラーパンクチャーのトレーニングコースは、当時は、まず、1週間のワークショップ、基礎を習ってから、トレーニングパート1、トレーニングパート2とそれぞれ2か月近く毎日行われるという長いものであった。
それぞれのトレーニングを受けるには、面接があり、受けることのできない人もいる。
たいていは、まだ瞑想をあまりしたことのない人だとか、何か、重大な問題がある人が落された。
とてもやる気のある人でも、サリタの霊視の前には、NOと言われる人もいた。とてもかわいそうだった。
そんな中、私は首尾よく通過し、ボディに焦点を当てたパート1、トランスミッターというシリーズセッションのみに焦点を当てたパート2ともに受けることができた。
Osho コミューンでは、霊的成長や瞑想に役立つ「トランスミッターリレー」というシリーズを特に重要視して扱っていて、これを受けることは、瞑想ができるようになるためのショートカットであると言われていた。
私が個人的に受けたときの経験をシェアしてみたい。
私がトランスミッターを受けたのは、ドイツ在住の日本人で、彼女は、宮崎県出身と聞いていた。
彼女は繊細な感情を持っているので、セッション中、何度もむせ返ってきつそうだ。きっと私の体からたくさんの毒が出ているのだろう。
とにかく内容がすごい。
セッションは、頭の周りに円を描いて過去の出来事に当たるポイントを光と色で浄化する。
過去のトラウマや生まれてから死ぬまでのエネルギーブロックの解除、社会や環境からの悪影響からの解放、全レベルのオーラの修正までを含む12回、プラス、フォローセッション
数回を3日に一回受けるのである。
シリーズ全体で、両親からの条件づけの解除のプログラムも並行して進められる。
ほとんどの人は、母親や父親からの強い影響を受けていて、それが基盤となって自分自身の人間関係が構築される。
マザーコンプレックスやファザーコンプレックスは結婚生活を壊す原因となることでかなり知られていたが、心理カウンセリングくらいでは治らない、というか、いかなるセラピーをしても大きな進歩はないのである。
かくゆう私も両親の、特に父親の影響が強いことは分かっていた。たぶん生後1か月くらいから怒られたに違いない。
父はずっと酒乱だった。
私がおぼえていることは、頭に残るげんこつの痛みと、父が兄を追いかけて雪の中をはだしで駆け回っていた風景だ。父の手には本物の刃物が光っていた。
父に押さえつけられてびくびくした生活は、大人になって父と離れても年上の男の人に対してなんとなく落ち着かなかった。心の底には恐怖があり、緊張した体があった。
ボディーワーク、エナジーワーク、NLPキネシオロジー、ブレスセラピー、ゲシュタルト、バイオダイナミクス、などを受けて、十分に怒りを出したつもりだったが、カラーパンクチャーのファーザーポイント(父親のポイント)は決定的だった。
リアクション(日本語では好転反応)は、それぞれであったが、その後の結果は皆良好。
全部で5回の結果は...
1回目 喉が苦しい。父に押さえつけられる苦しみ、恐怖が出てきたあと、怒りが出てきた。
2回目 父の恐怖が出てきた。今まで知らなかった父の内面の深い悲しみや苦しみ、焦り、体の痛みなどを理解できた。
3回目 父の今まで見たことがなかった、人生の指針、人に対する考え方、頑固な姿勢、内面には深い絶望感があった。
4回目 父のどん底から這い上がろうとする向上心を感じた。お天道様のしたで恥ずかしくないように生きていく高尚な姿勢が眩しい。
5回目 父に対する緊張はなくなっていた。父の目は優しく微笑んでいる。ごく普通に穏やかな目で私を抱き上げてくれる。父への愛と感謝を感じた。
夕暮れのバルコニーで、私は父を見た。
山間の棚畑を耕している父は、汗を吹きながら腰を伸ばしている。左上にはカラスが飛んでいる、右上には夕方の紅がかかっていた。
小柄な父は、優しく平和なごく普通の父だった。
私は父さんゴメンね、ありがとうといった。
両親の影響のような基本的セラピーでさえ満足な結果が出にくいのに、このファザーポイントはたった5回で解消されるのである。
マザーポイントもまた、5回、同じような順序で解消されるのである。

Oshoとカラーパンクチャー…奇跡的ヒーリング その4

トランスミッター・リレーについて全て記すことは難しい。
額の上、半径1、5センチのサークルを第一サークルとすれば、1.5センチづつ外側へと広がっていき、4番目のサークルまでが最初のセラピーの対象となる。
第一サークルは25歳まで、第2サークルは100歳までのエネルギーブロックの解消を目的とするのだが、ここでは、ちょっと珍しい第2サークルの理論について。


第2サークルは、円全体を3分割して青年期(0~33)壮年期(34~66)老年期(67~99)を当てはめ、エネルギーブロックを解消していくのだが、この3つには関連性があり、青年期のブロックが原因で壮年期、老年期と、形を変えての33年ごとの周期がある。

わかりやすく例をあげよう
私の場合。
青年期 6歳の頃     いつも弟の罪をかぶって親から叱られて悲しかった
                 ↓
壮年期 39歳(6+33) 胸が苦しくなり
                 ↓
老年期 72歳(39+33)肺の痛みで死ぬ
のであった。
青年期 25歳       仕事のストレスで押しつぶされそうになる
                 ↓
壮年期 58歳(25+33)胃酸過多でダウン
                 ↓
老年期 83歳(58+33)胃がんで入院
というふうである。
つまり、
0~33歳の体験を
34~66歳で繰り返し
67~100歳でまたもや繰り返す
のである。
老年期は未来に当たるわけだが、光を当てるとその年に体験するであろう状況が見えたり、見えなかった人でも何となくその時の雰囲気を感じたりする。すくなくとも生きているか死んでいるか位はわかる人が多い。
早死する運命の人が、エネルギーブロックの解消で寿命が延びたりする。
寿命だけではない。
私の場合、本当はドイツかどこかの寒い街で不幸な家庭を築いていたが、第2サークルの改善で、本来のやるべき仕事をして幸せな家庭を築いている。こうしたブログを書けるのもトランスミッターのおかげと言えるかもしれない。
だから、これは奇跡的ヒーリングなのだ。
Oshoコミューンでは、当時、カラーパンクチャーをめぐって怪しい動きが始まっていた。何しろ色とポイントがわかればあなたもヒーラーになれるのだ。ワークショップを受けていない人も、瞑想をしたこともない人も、こぞってこの情報を欲しがった。
トレーニングの時のノートをみんなが目の色を変えて欲しがった。そして、情報収集するとほかの国に旅立ち、稼ぐ輩も出てきた。
ニューヨークの道端で、減量トリートメント(カラーパンクチャーにもこうしたものがある)だけで、大金持ちになったとか、セッションでほかの国に稼ぎにゆき、1ヶ月でたくさんの札束を持って帰ったとかいう噂が広まった。
こんなことが横行しはじめたので、ピーターマンデルも予防策をとり、「認定セラピスト」なるものを養成するようになった。怪しい動きを封じ込めると共にトレーニングコースを自前でつくるという、一挙両得のビジネスだ。
ヨーロッパのセラピストはいちはやく資格を取りに行った。私はこの時、この両方の動きに賛同しなかったので、後に協会に訴えられることになる。全てはビジネスなのだ。セラピーとは何の関係もない。
コミューンのセラピストたちは、相変わらずカラーパンクチャーの療法がどのようにワークしていくかについて、定期的に会議をして意見交換をしていた。私は東京での体験を話した。
「他のところでトランスミッター第4サークルまで受けたという人がそのアドバンスコースである第5サークルを受けたいと言ってきたが、エネルギーチェックをすると全く解消されてなかったので断った。全く解決されていないとはどういうことなのだろう。」
すると、ほかのセラピストは、心当たりがあるといったふうに顔を見合わせた。
どうも彼らの間でも薄々見当がついているらしかった。
サリタが言った。
「トランスミッターというものは、正しいポイントに正しい色を与えれば、誰でもそうなるといったものではないのです。自分自身が解決されていなければ、他人を解決することはできないのです。」
「ただ色の種類の方法を習って人にやってあげても効果はありません。セラピストの体験がクライアントに光を通して転写するとき、効果が出るのです。ですから自分が良くなった体験を持たない人がやっても効果はでないのです。」
そういって、完全に変容したかどうかをチェックする方法、そしてしっかりと完成に導く方法をサリタは教えてくれた。

Oshoとカラーパンクチャー…奇跡的ヒーリング その5

トランスミッターリレー第4サークルは、いよいよネガティヴィティーの総決算である。

 おおむね恐怖、悲しみ、怒りなどの感情だが、これらはむやみに表に出ているものでなく、深く無意識に沈んでいて、表出させるためには相当エネルギーを注がなければ出てこない。
呼吸を深くしたり、瞑想してエネルギーを貯めたりすると表出するが、いくらやっても氷山の一角。だから普通のセラピーでは、完全に解決できない。
第4サークルの各ポイントに光を入れると最初、光が闇に吸い込まれるようで何のリアクションもない。
コップに例えれば底にもエネルギーが全く無い状態。
そこに光と色というエネルギーを与えると、エネルギーが無意識の臨界点を超える。
エネルギーが無意識の臨界点を超えると、ポジティヴなエネルギーに押されて、リアクションとして行き場を失ったネガティブな感情が出てくる。
そして最後には、全体としてポジティブなエネルギーへと変わっていくのである。
ネガティヴィティーは、内臓に蓄積して、感情として出てこない場合、臓器自体が機能しなくなったり病気になったりする。
ネガティヴな感情は、五行の法則に従って移動するのである。

Oshoとカラーパンクチャー…奇跡的ヒーリング その6

カラーパンクチャーの理論のもととなっているのは、意外にも5行の働きである。
つまり、水、木、火、土、金の5つの働きである。
ピーター・マンデルは、若い頃、中国にいて、鍼灸を勉強したことがあり、その理論はこの東洋医学から構築されているのである。
ピーター・マンデルから直接聞いた話だが、彼が中国に鍼灸を習いに行ったとき、彼の先生は、診察室に入ってきた人を5分観察するだけで、その人の問題を言い当てたという。
その先生は、五行の哲学にも精通していて、「5分でクライアントの問題が見分けられなかったら、あなたは、施術者をする資格はない」と言ったそうだ。
ピーターマンデルがその話をすると、その場にいた人々は「マンマ、ミア」(お手上げだ)と口々につぶやいた。
ご存知の方もおられようが、体の臓器と感情は大きなつながりがある。
性質 臓器 セッション前 セッション後のポジティヴな変換
水 腎臓・膀胱・生殖器 恐怖・不安 信頼
木 肝臓・胆嚢 怒り・攻撃性 我慢強く目標に向かう
火 心臓 諦め・多動性 受容性・思いやり
土 胃・膵臓・脾臓 冷酷・無感動 対局の調和
金 肺・大腸 悲しみ・憂鬱 直感・霊感
各臓器は深い感情を秘めている。人は過去生からの影響でネガティヴな感情を秘めているが、無意識のこととはいえ、いつも顔を出す。
ニュートランスミッターがおわるころ、ネガティヴな感情は姿を消し、各臓器に新たな感情が出てくる。
愛と瞑想的な新しい感情は内側から、朝日のように登ってくるのである。

Oshoとカラーパンクチャー…奇跡的ヒーリング その7

ピーターマンデルの2度目のOsho コミューン来訪の時、彼は、セラピストのみで構成されるセミナー、「Teacher's training」が開かれた。
ピーターマンデルは、いつも新しい話題を持っているのだが、この時は、トランスミッターの深い話について、もう一つは、プリネータル・バルドー(中有と言われる死後の世界)の話だった。
彼は、トランスミッターについて、頭に刻まれた魂の設計図という8重の輪について、こう言った。
「頭からユニコーンのように一本のアンテナが伸びているのを想像していただきたい。このアンテナを活性化すれば、宇宙からの信号を受け取れるのです」
アセンション次元上昇の今、光あるものは、この8つの輪が活性化され、宇宙文明から来ている光をキャッチできる。ユニコーンのアンテナのように自分の中の光を活性化すれば、宇宙からの光を受け取り、次元上昇できるのだ。
ピーターマンデルのこの言葉は、何十年もたった今、だんだん実感しつつある。トランスミッター・セッションは、受けたその時から何十年にもわたって作用し続けるのである。
横道にそれるが、宇宙からの情報を取り出せると便利なこともある。おいしいレストランは?どっちのハーブが今の体に良い?とか、その程度のことはわかるようになる。エネルギーのある場所も行ってみて感じるようになる。

そして、その能力は、突然出てくる人もいるのだが、通常は、徐々に、本当に徐々に発現してゆくのである。

次は、プリネータル(胎内期)をもっと掘り下げた話、バルドーについて興味深い話が展開されていった。

Oshoとカラーパンクチャー…奇跡的ヒーリング その8

ピーターマンデルの次の話は、プリネータル(胎内期)についてであった。
「ここに7回結婚した男がいる」ピーターマンデルは言った。「彼は、プリネータルに問題があるので何度でも同じ間違いを繰り返す」
いかに胎内期の出来事がその後の人生を決定するかという話だった。
プリネータルは足のラインに光を入れる。そして、各ポジションは、何週目と決まっていて、光を当てることでブロックを解放していく。

受胎がAで、誕生がZである。
人生を決定しているのは何か。
最近、shantiは、四柱推命で人の運命を見ているのだが、色々な人を見ているうちに、どうも、生まれてくる日は、胎内期にどう過ごしたかと関係があるようだ。と言うようになった。つまり、運命もそれによって決まっているということなのだろうか。
西洋占星術でも四柱推命でも、生まれた日や時間と運命を関連付けたものなのであるが、生まれた時のエネルギーの取り込みが、その後の運命を決定するという理論のもとに打ち立てられた体系である。
ならば、死んだときはどうなるのか。
もし、輪廻転生があるとするならば、死んだとき、それから死後の世界も次の人生を決定する要素となる。そこをクリアーにしようというのが、プリネータルが一歩進んだ形の死後理論だった。
ピーターマンデルは、死後についてのセラピーも開発して、Oshoコミューンでのみ発表した。死というものはほとんどの人にとって、恐怖と一体化している場合が多い。前世における死後の恐怖を体験し、解放することで、日常的恐怖も手放していけるというセラピーであった。
だが、あまりに高度な問題であるから、マーケットプレイス(世間)では、あまり公開することはなかった。私も心ある何人かの人にのみセッションをしたように思う。
なにしろ、運命について考えたことのない人がほとんどで、セッション自体もなにも感じない人がほとんどなのであるから、理解のある人にしかできないものなのである。
というわけで、次第にこれ以後、世間での体を癒すためだけのカラーパンクチャーと深遠な思想を含んだOshoコミューンのワークとは、袂を分かっていくことになるのである。
ピーターマンデルは、深遠な精神世界にも、とても興味あるようだったが、精神的成長のためのセラピーの発表は、主にOshoコミューンで行われ、そのメソッドは、コミューンでの実験を通して確立されていったのである。

ライトパンクチャー誕生

ピーターマンデルのレクチャーは色の持つ神秘を何層にもわたって解き明かしていく集中したゼミのようだった。
一週間、精力的に講義したあと、最後のパーティーでとっても楽しく、疲れるどころか霊的なエネルギーに溢れ、元気になったと言ってドイツに帰っていった。
多くの人にとってピーターマンデルのインスピレーションからくる新しいヒーリングテクニックを学ぶ意欲が強いので、今度はいつ来るのか、さらなる期待が高まるばかりだった。
我々カラーパンクチャースタッフには、ピーターマンデルから伝わった多くの新しいテクニックを伝授される喜ばしい忙しさが続いていた。
ピーターマンデルから教わったテクニックを実験したあと、マンツーマンでスタッフにセッションを実施していく。
そこにはOshoコミューンが形作った掟がある。すなわち、体験してから習う。体験する前に知ってはいけない。意識の高みに至った体験が伝達されるのである。トリートメントはこの色で、このポイントは何分間といったようなテクニカルな机上の勉強ではない。
新しいトリートメントを習う場合、まずマンツーマンでそれを受ける。そして感じて、それに良い感触を得たなら、教えてもらう。体験するパートナーにも恵まれなければならない。
そして、やがて、Oshoコミューンで実験され、確立していったトリートメントは、ライトパンクチャーと呼ばれるようになったのである。この辺のことは、Oshoの専属の歯医者であった、デヴァギートが、Oshotimes に寄稿している。



Osho ホリスティック ライトパンクチャー(訳文)
1989年秋にOshoは、キルリアン写真と放射線治療のスペシャリストにコンタクトするように言った。それは、4年前アメリカ政府に逮捕されていた間、放射能を照射されたことを確かめるために、私が推し進めていた努力の一環でもあった。
ヨーロッパのサニヤシンから多くの名前がもたらされたのだが、その中にドイツ人で、キルリアン写真とカラーパンクチャーを治療方法として結合させた開拓者、ピーターマンデルがいた。
キルリアン写真は、肉体を取り巻くエネルギーパターンを明らかにするもので、それらは、マンデル氏によって診断方法として使われている。写真で彼が見たものをベースにして、特定の順序と色で体にカラーライトを当てていく。
このアプローチの背後にある基本的な考えは、肉体における病気は、体を取り囲んでいるエネルギー体の不調和から作られる、あるいは、先立って作られているというものだ。色によって、エネルギー体がヒーリングされ、バランスが取られることによって、肉体もまた、治療されていくのである。
マンデル氏はプーナに招待され、キルリアンとカラーパンクチャーについてセミナーを開いた。そして多くのサニヤシンが(私自身も含む)この新しいヒーリング方法に感化された。
エソジェティック カラーパンクチャーは、グローバルなサニヤシン・コミュニティーにとても急速に広まっていった。そしてまもなく、カラーパンクチャーを使って肉体を治療するということだけでなく、精神的、霊的セラピーに使うといった、新しい境地を開拓していくこととなった。

われわれは、カラーパンクチャーで、人々の瞑想の能力に干渉し、瞑想を出来なくしているエネルギーブロック、精神的問題、過去生のカルマのパターンといったどんな障害をも取り除くことのできる、とてもパワフルなツールだということを発見した。
この新しいヒーリング技術を使ったユニークなサニヤシン・スタイルの方法の急速な開発で、主に肉体に働きかける、従来のカラーパンクチャーと我々の形式との明らかな違いを作ることが必要となってきた。
そういうわけで、ピーターマンデルの同意のもとで、我々のワークの名前をOsho ホリスティック・ライトパンクチャーと改めることにした。この新しい技術のトレーニングは、プーナのOshoコミューンにおいて、正式に行われる。我々は、この注目すべきヒーリング方法の可能性に手をつけ始めたのである。
                                   デヴァギート

                                   
サリタはトランスミッターのグループをリードできる新しい人を探していたが、サリタでなければ人は集まらなくて、高度な知識はそう簡単に広まらなかった。
私は幸いどんどん新しい知識が手に入ったが、一般の人が新しく習う道はだんだん狭まっていった。精鋭セラピストは最高の知識を持ってセッションを与えるものとしてのみ存在し、習う道はもうなくなっていった。
ピーターマンデルは次々と湧き上がるインスピレーションをセラピーにしていたが、精神性の高いセラピーを肉体治療を求めている人にやってあげても、セラピーと患者との意識の差を埋めるのは多難であるだろう。
Oshoコミューンの実験は、治療やビジネスではなく、瞑想に一生を捧げる覚悟を持った者たちの活動である。
そこで行われる実証的セラピーをライトパンクチャーとして、カラーパンクチャート区別した。ライトパンクチャーは、光と色の実験を通してその時期作り上げた貴重な花のようなものだった。
この奇跡的ヒーリングに感応した縁ある者は、運命的出会いを通して、魂の量子的成長を遂げたのである。そこでは、すべてを信頼して賭けることのできる大きな勇気と真実を見定める確かな目を持ったものだけがめぐり合う奇跡のようなものであった。
追記
デヴァギートは、最近、self-healingに関するインタヴューのビデオをyou tubeに公開している。そのインタヴューのなかで、思い出せるトラウマよりも思い出せないトラウマの方が病気と直結しているというようなことを言っている。この時期、ライトパンクチャーに携わったものだけが実感できる真実であろうと思う

Methods of Self-Healing and Self-Transformation
https://www.youtube.com/watch?v=iIoPPn9rxDI

グルジェフのこと最終回+α ジャーマンベーカリーにて

Oshoコミューンの参道のT字路にあるごく普通の喫茶店は、ジャーマンベーカリーといって、コーヒーや紅茶、ケーキとパンからレストランも併設し、インド料理から中華料理までなんでも出すカフェである。インド式にチャイ一杯だけでも利用できる。早朝から深夜まで開いていてコミューンの朝食に間に合わない人はそこで食べたり、昼食、夕食と瞑想疲れした人がぼーっと佇むのにも良い。
牛やリキシャーが行き交う騒がしいところながらも、砂床に木製のいすの露店でいつでもくつろげる店内、内部の席も2階まであり、結構広い。

そこは瞑想にあぶれて、あるいは少し言い訳がある人々が集まったり、ちょっとお腹がすいた時行くようなところで、何しろ西洋人にとっては、ケーキにアップルパイ、、ミルクティーとコーヒーを揃えているだけで、ホッとするところに違いない。
ジャーマンベーカリーは、また、旅行者と外部インド人との出会いの場でもあり、気楽に話しかけられる、庶民的なところである。多くの男女の出会いがある。瞑想ができなくて、夜遅く孤独を埋めてくれるパートナーを求めてジャーマンベーカリーを訪れると、そこには同じような男女がいて、かくして簡単に夜がふけるので、めでたくベットインとなる確率が高い。
朝、瞑想のあとにお茶を飲みながらジャーマンベーカリーにいると、そこには、よく、夜を共にした西洋人のカップルが、遅い朝食を食べている。西洋人の場合、カップルは朝食を二人でゆっくり食べるのが習わしのようだ。グループで一緒だった意外なメンバー同士を見かけることもしばしばだ。
観察していると、朝食カップルでは、話をリードしているのは常に男性である。イギリスにいた頃は、朝のBBCニュースで、なんとグローバルな話題に満ちているか驚いたことがある。あらゆる西洋人の朝食カップルは、ホストなかれ男性がBBCニュースのような話題を取り上げて、自分はどう思うのかを話しているのだった。女性はただ頷くのみ、大抵はそのようだった。
多くの女性は、流暢な英語の時事問題に、あいずちを打っているのだった。であるから、日本人女性と西洋人男性のカップルは何ら問題が生じないのだが、その反対は、と言うと…ほとんど難しい。
日本人男性の基本スタンスは多少しゃべるにしても、少なくとも私の世代は「男は黙って」が、標準である。それに、西洋人女性は、1時間近く言葉少なに朝食を撮るのは耐えられないようなのである。
ところで、話は変わるが、グルジェフダンスを当時リードしていたのは、アミヨといって、Oshoの古くからの弟子で、オレゴンのコミューンの中でもよく見かけた。パリジェンヌのダンサーで、昔は気位が高かった。このプライドを壊すために和尚は、オレゴンでは、3年間のコミューンのトイレ掃除をさせたということだった。
そのアミヨに恋をした日本人の田舎から出てきたおじさんがいた。彼は、私に相談した。アミヨは自分の方を見て微笑みかけたという。モーションをかけるべきかかけないべきか。おじさんは、情熱がすごくある。ベットテクニックに自信はあるという。英語もフランス語も
喋れない。
しかし、私はかわいそうになった。相手は西洋人なのである。時事問題を英語で流暢にしゃべれる自信はあるのか、しかもその話の内容に教養を見せなければ。うーんとてもむり。
しかし彼は、実力勝負、自信があるといった。それならどうぞ。しかし、ジャーマンベーカリーで、彼が誰か女性と朝食をとっているところを見る機会はついぞなかった。
日本男児ここにあり。向こう見ずに全力で戦う。しかし、勝負は翌朝の朝食で決まるのである。日本人の静けさや寡黙なところは、西洋人にはマイナスポイントなのである。この美しさが分かるのは、どんな国の人だろうか。