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2019.09.28

Oshoと瞑想 エーゲ海の波の音

New yorkからロンドンへ、私はかつて巡った道を振り返るようにヨーロッパを横断して丘の下に見下ろしたのはエーゲ海だった。エーゲ海は緑色で独特の美しさだった。ギリシャでヴィパサナ瞑想を終え、私はギリシャの西伝いに船でトルコの西海岸に渡った。

国境を越えると物価が半分になる。フランスから、イタリア、ギリシャ、トルコと渡って、どんどん物価が安くなった。だが、トルコだけは、物価というものがわからなかった。

ギリシャのヒオス島からトルコのチャシュナへ船で渡った。

船を降り、入国管理を済ませると、バスターミナルであった。やぎや鶏。犬がひしめき合い、女は黒いマントで目だけ出して、会話はあまりしない。男は白っぽい服を着て、なんでも男が取り仕切っている。

私はアラビヤ文字だけの表示にくらくらしながら、「イズミール!」と、行先の町の名前を連呼した。
と、数人の男がやってきて、私の手を握って、連行され、バスの中に押し込んだ。

でこぼこ道を一時間走って、突然、外に下ろされた。別の男に今度は引っ張られ、三叉路で次のバスに乗せられた。そのバスからまた下ろされると、そこは、街のようだった。
 

また別の男が手を取ってその街の汚い、ベット一つの狭い部屋に連れて行かれ、ぶち込まれ、部屋代を請求された。

ミミズが這っているような、アラビア文字だらけでどこに着いたのかもわからない。ここでは数字さえもアラビア文字で表示されていて、ただ柱時計だけが、私の読めるものであった。とにかく目的地についたようだと思った。しかし、これからどうしたらよいのか見当もつかない。

ホジャどん(ホジャ・ナスルディン…トルコの笑い話の主人公)の故郷は、はて、こんなところだったのかと、まだ何がなんなのかわかっていなかった。

荷物を置いて、夕方外に出ると、屋台が並んでいた。屋台は分かったが、とにかく、数字もアラビア文字で、途方に暮れた。アセチレンランプの匂い。薄味の薄香辛料、薄オリーブ油のごくあっさりした食事だった。

このあたり、ギリシャから来るとすごくほっとするものだ。ギトギトのオリーブ油には体がついていかなかったからである。

食べていると、見知らぬ男から「どこからきた?」と聞かれた。「ジャパン」と答えた。何か話かけられていたのだが、ほとんど意味がわからない。

食事を終えて帰ろうとしてお金を払おうとすると、誰かが払ったという。さっきの見知らぬ男が払ったのだろうか。

翌日、3人の男が朝早く訪ねてきて、街を案内してくれた。しっかりとガードするように、私の手をかたく握って、色々なところをまわってくれた。食事もお茶も全部おごってくれた。

彼らのやり方は乱暴だが、親切にしてくれているのだということが、だんだんわかってきた。最初は恐怖でいっぱいだったが、だんだん感謝の念に代わっていった。

ガイドブックがないから、海岸沿いにエーゲ海を見ながら少しずつバスを拾う。トルコに来て一か月にもなろうとしているのに、私は物価というものがわからなかった。必ずどこからか見知らぬ男があらわれて、食事代やお茶代を払ってくれるからである。

一日に何回も、見知らぬ男たちに招待されるチャイハネ(喫茶店)では、いつも彼らが代金を払ってくれるので、ブラックティーが一杯いくらなのかわからない。

ひとりでレストランに入ると、必ず相席を申し込まれ、食べ終わると、いいからいいからと伝票を取り上げられる。ときには、西洋式に生ビールを何杯もおごられた。決まって、すべて代金はむこうもちだった。

私が食事代を支払うということは許されなかった。私は、日本から来た大切な客人というわけなのだろうか。どこへ行くにも固く手を結んで連れて歩かれて、道に迷うことはなかった。

こんなに親切にされて、私には何も返すものがなかった。親切にしてくれた見知らぬ男たちは、みな深い皺が刻まれ、人生や人柄を表現していた。それはおおむね、正義と義理と人情。あの渋い高倉健さんも顔負けの人間味のある渋~い顔であった。

男の社会。朝はお茶を飲み、楽しく語り合う。昼も夜も。

私はさらに南下し、エーゲ海のビーチ、カレーというところで、やっと一人になれた。ひとりになって、教えられたトルコ語を思い出しながら、海の家で泊まり、エーゲ海で泳いだ。

波の音を聞きながら眠った。